真田丸第28回。この回は、豊臣秀次切腹事件が新説(斬新な解釈)を用いて展開する中、星野源さん演じる徳川秀忠が初登場。秀次の影に隠れて、ネットではあまり話題に上らなかったようですが、個人的にはたいへん興味深いものでした。家康に言われて、(こちらも初登場の)本多正純に深々と頭を下げる姿は、「実直に、ただひたすら父の言いつけを守る息子」の姿であると同時に、「融通の利かない、やるときめたらとことんやる男」を表現、またその無表情は、「腹の底では何を考えているのかわからない冷徹さ」をあらわしていました。
そもそも、秀次切腹の回に初登場ということ(※秀次と秀忠は天下人の後継ぎという意味で同じような境遇を経験しますね)にも意味を含ませていますし、その後の本多親子と秀忠の関係性を考えても、まさに三谷流、一見何気ないシーンのように見えて、とても怖いものだったと思います。
家康の三男、秀忠
天正7年(1579年)、本能寺の変の3年前に浜松で誕生した秀忠。なので真田丸初登場の回にはちょうど16歳ということになります。
母は側室の西郷局。この母の実家の西郷氏が名家であったため、秀忠を世継ぎとするのに都合が良かったとの説があります。兄弟には長兄の信康、次兄・秀康がおり、二人ともに秀忠とは異母兄、また戦国武将としての評価はたいへん高い人物です。
しかし、信康は秀忠の生まれた年に切腹(※信康切腹事件)。この事件のいきさつには諸説あり、未だはっきりとした理由は判明していません。そしてもうひとりの兄・秀康は豊臣秀吉に養子(人質)として出され、のちに結城氏を継いでいました。秀康に関しては、その誕生のいきさつ(※家康の正室・築山殿の奥女中を務めていた於万に家康の手が付いて秀康を身籠ったため)から、家康に嫌われていたという説があります。
凡庸な男、徳川家後継者へ
天正18年(1590年)、小田原征伐の際には上洛(※実質的には人質)して元服。秀吉から「秀」の字を貰い受けて徳川秀忠となりました。その後の後継者争いでは、本多正信(息子・正純も)ら重臣たちが秀康を後継者に押す中、秀忠を支持した家臣は大久保忠隣(※本多親子とは因縁の大久保家。父は大久保忠世。)のみだったと言います。
兄の結城秀康はその器量を周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われています。一方の秀忠、「温厚な人物」だったという記載があるのは「徳川実紀」などの徳川家の史書。武将としての評価はたいへん乏しいもので、その理由として評価ができるような合戦をそもそも経験していないことも挙げられます。
しかし、秀忠の凡庸篤実なところこそ、その後の太平の世の中には必要として、逆に家康から見込まれ後継者に指名されます。家康の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待され、結果として秀忠もそれによく応えたのでした。(※戦国一の読書家と言われる家康。唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、「守成は創業より難し」ということについて、ことさら重要視していたものと考えられます。)
戦国期がいよいよ終焉を迎え、平和な時代に必須の才能を秀忠は備えていた。また、それを見事に見抜いた偉人が、その父・家康であったということでしょう。
関ケ原への遅参に関して
関ヶ原の戦いが初陣であったという秀忠。3万8,000人の大軍(しかも徳川譜代の精鋭・主力部隊)を率いながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫します。このときの惨敗ぶりと、上田城など関ヶ原の本戦に比べれば大した問題ではないことがわからなかったという点、そして結果として関ケ原の合戦には遅参するという大失態から、秀忠の軍事能力への低評価がはっきりとしたものとなってしまいます。
しかし、本当に秀忠は自ら上田城攻めにこだわり、自らの失態で関ケ原に遅れたのでしょうか?
この考察については次回投稿にて、お楽しみください。