一説には実弟とも伝わる、大谷吉継の子・大谷吉治。官位は大学助を叙任しており、史料によっては大谷大学などと記される場合もあります。(※その他、諱(いみな)に吉胤や吉勝など。)
真田幸村(信繁)は義理の兄にあたります。
慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が大谷家を訪問した際(秀吉死去の前年)には、病状の悪化した父・吉継の代わりに接待役を務めたと言います。
慶長4年(1599年)、当時、佐和山に蟄居していた石田三成、吉治は家康の命令で、三成の家臣と共に越前表に出兵しています。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは父・吉継と共に西軍に与して、北陸で前田勢を足止めした後、関ヶ原に着陣。奮戦するも小早川秀秋の軍勢が西軍を裏切り、部隊は壊滅して父・吉継は自害しました。
この時、吉治は敦賀に落ち延びて、その後は各地を流浪したと言います。
慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると招きに応じて大坂城に入城。吉治は豊臣方から100名の兵士を担当する隊長に任命されました。
慶長20年(1615年)5月、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いでは、真田幸村(信繁)隊と前線で戦いますが、越前福井藩の松平忠直軍との戦闘中、忠直家老の本多富正の配下により討たれ、戦死しました。