本多正純(まさずみ)

永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれた正純。この時、正信は三河一向一揆に参加して徳川家康に反逆しました。その後、一揆が家康によって鎮圧されると、家中を追放されて大和の松永久秀を頼ります。(このエピソードの詳細はこちら

しかし、正純は母親と共に三河に残り、大久保忠世(大久保忠隣の父)の元で保護されました。やがて、父・正信が家康のもとに復帰する際にも、同じく大久保忠世の助力を得てのことでした。

 

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家康に親子2代に渡って仕え、重用された

正信が復帰すると、正純も共に家康に仕えることになります。父と同じく智謀家の正純は、これまた父と同じく家康の信任を得て重用され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かるなどの大任を果たしました。

慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになりました。

そして、徳川家の後継者候補選びでは、父・正信とともに正純は結城秀康を推挙。一方の秀忠は大久保忠隣に推挙されています。

 

やがて権勢を誇る正純

慶長10年(1605年)、家康が将軍職を秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになります。

正純は家康の懐刀としてその頭脳を活かし、やがて頭角を現すと、家中において絶対的な権勢を持つにいたりました。(※家禄は、下野国小山藩3万3,000石の大名身分

慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八が詐欺を働き刑に処されます。(※岡本大八事件=大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する他、正純本人の信用にも影響を及ぼしたと考えられます。

慶長18年、秀忠を2代将軍に推挙した大久保忠隣が改易。本多家にとっても三河一向一揆の際には帰参の助力などの恩もあった大久保家ですが、この頃には互いに大きな勢力となっており、忠隣の改易に関しては、本多正信・正純父子が、政敵である忠隣を追い落とすために策謀を巡らせたとする見解があります。さらに、正純は岡本大八事件で政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めておきたかったとする説も。その後、正信・正純父子の権勢は以前の10倍になったともいわれています。(※ただし、諸説あり。事の真相ははっきりとしていません。)

そして翌年の慶長19年(1614年)、大坂冬の陣。徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を正純が家康に進言。豊臣滅亡の大きな決め手となり、徳川の天下は盤石のものとなっていきます。

 

秀忠の時代

元和2年(1616年)、家康が死去。その後、正信が後を追うように没すると、正純は江戸に転任して秀忠の側近となります。しかし、家康存命の時代から権勢を誇ってきた正純に対して、その他の側近からの妬みや、将軍である秀忠本人からも疎まれる存在となっていたと考えられます。(※なお、正純の知行地は家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000石の大名となっています。)

後ろ盾の家康が亡くなり、秀忠が主導権を握ったことで次第に幕僚の世代交代が進み、秀忠の側近・土井利勝らが台頭。正純の影響力、政治力は弱まっていきました。

 

やがて失脚へ

正純の父・本多正信は生前、本多家の知行地に関して「加増3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ。だがそれ以上は決して受けてはならぬ。もし辞退しなければ、禍が必ず降り懸かるであろう」と説いていたと言います。さらに正信は秀忠に対しても、「もしこれまで正信のご奉公をお忘れでなく、長く子孫が続くことを思し召しされるのなら、正純の所領は今のままでこれより多くなさらないように」と嘆願したとも。

しかし、元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして、正純は下野・小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けてしまいます。

元和8年(1622年)、正純は秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけられます。正純は最初の11か条については明快に答えたと言われますが、追加質問された3か条については適切な弁明ができませんでした。その3か条とは、城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたことでした。そして、先代からの忠勤に免じて出羽5万5,000石に移封の命を受けますが、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その命を断ってしまいます。これが秀忠の逆鱗に触れ、本多家は改易。知行はわずか1,000石のみとなり、身柄は佐竹義宣に預けられて流罪となっただけでなく、後に幽閉の身となりました。

こうして、正純の失脚により、家康時代にその側近を固めた一派は完全に排斥。土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになりました。

 

真相は闇に

家康からの厚い重用を受けた父・正信とその子・正純。徳川家と世の天下泰平のため、謀略の限りを尽くした父子。最期は謀略による末路を辿ることになりました。しかし、その誇った権勢について、私心はなかったのではないか?ともとれるむきもあり、本人たちは周囲からの反感を自ら進んで買っていた可能性を感じてしまいます。(父・本多正信の投稿記事はこちら

寛永14年(1637年)3月10日、正純死去。享年73歳でありました。

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