謎多き戦国の武将・明石全登
播磨を支配した名門・赤松氏の支流にあたるとも言われる備前明石家。明石行雄(※景親とも)の子として生まれたとされる明石全登ですが、実際のところ、その生年や、全登という文字の正しい読みなど不明な点の多い人物。キリシタンであったとされています。(※全登は、たけのり、おしとう、ぜんとう、てるずみ、ジュストなど多数の読みが指摘されています。また、景盛、守重の他、官途の「掃部守(かもんのかみ)」とも。)
宇喜多家に臣従
父・行雄の時代、明石氏は浦上宗景の家臣でしたが、天正3年(1575年)9月、宇喜多直家(※秀家の父)に呼応して寝返り、以後、宇喜多家に臣従することになります。直家、秀家の2代に仕えた行雄は、4万石の知行にまで出世。その子・全登が文禄5(1597)年4月頃にその家跡を継ぎ、家老職を務めています。
主家の騒動により、その中枢へ
慶長4年(1599年)、秀吉が没後した直後、宇喜多家内に騒動が起こります。
宇喜多騒動=宇喜多家重臣の戸川達安・岡利勝と、秀家側近の中村次郎兵衛(中村刑部)が対立。中村が襲撃される事態となった騒動を言います。もともと秀家の正室・豪姫(※前田利家の四女で秀吉の養女)の付き人として前田家から宇喜多秀家に仕えた中村次郎兵衛は、経理や土木築城技術にも優れていたため秀家に重用されますが、そのことが従来の宇喜多家臣との軋轢を生むことになります。秀吉が死去すると問題が一挙に表面化。秀家の問題解決のまずさもあり、騒動の調停には大谷吉継や徳川重臣・榊原康政までを巻き込んでの大事件となりました。最終的には家康の裁断により、内乱にいたるまでは回避されますが、この騒動で古参の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することとなり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながったとされています。
この騒動に際して、領国経営などに携わることのなかった全登は両者の対立に巻き込まれるようなこともなかったため、宇喜多に残って家宰として家中を取り仕切る立場になりました。(※騒動の詳細な顛末は諸説あります。)
関ケ原では宇喜多秀家とともに西軍に
慶長5年(1600年)、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣。石田方の西軍に与して伏見城を攻略します。(伏見城の戦い)
9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦に勝利。
9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めました。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦しますが、小早川秀秋の裏切りをきっかけに敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて退くように進言し、殿軍(しんがり)を務めました。
戦後、岡山城にたどり着いた全登ですが、城はすでに荒らされており、秀家不在のまま宇喜多家を出奔しました。
官兵衛に匿われた全登
こうして宇喜多氏が没落して牢人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田官兵衛(如水)に庇護されます。(※中でも、官兵衛の弟・直之が全登を匿ったとの説が有力。)
しかし如水の死後、嫡男・長政がキリスト教を禁止。この時期の消息については諸説あり、次第に情報が少なくなっていきます。
大坂の陣で再び歴史の表舞台へ
慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方に参陣しました。
夏の陣になると道明寺の戦いに参加し、全登は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱(※政宗と相茂の同士討ち)に陥れます。この戦いで全登は負傷を負ったとされますが、天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に300余名の決死隊を率いて家康本陣への突入を計画。しかし、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱しました。
その後の消息は不明となり歴史の影へ
その後の全登は、討死したとも、落ち延びたともされており、中には南蛮に逃亡したとの説もあります。現代に子孫と伝えられる方も存在されており、いずれかでその後も生を全うしたのではないでしょうか。キリシタンであったことからもそのように連想される明石全登のその後。今後、さらに研究が進むことを期待したいと思います。