学問の神様・菅原道真はなぜ太宰府に左遷されたのか…「悲劇のヒーロー」という美談が隠す歴史的事実 貴族界でアンチ道真の雰囲気が醸成された理由

学問の神様・菅原道真はなぜ太宰府に左遷されたのか…「悲劇のヒーロー」という美談が隠す歴史的事実 貴族界でアンチ道真の雰囲気が醸成された理由

平安時代の貴族で、現代では「学問の神様」として祀られる菅原道真は、どんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「実務能力に非常に長けていたが、傲慢な人物だったようだ。貴族界でアンチ道真の雰囲気が醸成されたのにも理由があった」という――。(第1回) ※本稿は、河合敦『 平安の文豪 』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。 菊池容斎『前賢故実』巻第五より、菅原道真像(画像=PD-Japan/Wikimedia Commons) 全ての画像を見る(4枚) 菅原道真の評価がグンと上がったある出来事 宇多天皇が道真に着目するようになったのは、阿衡あこうの紛議がきっかけであった。 皇位についた定省さだみ親王(宇多天皇)は、太政大臣の藤原基経もとつねに「関白としてすべて政治を取り仕切ってほしい」という旨の詔みことのりを出した。基経は形式的にこれを辞退するが、天皇はそれをさらに形式的に退け、再び政務の総括を基経に要請する勅答を差し出した。ただ、その中に「阿衡の任を以て卿(基経)の任となすべし」と記されてあった。これが大問題に発展したのである。 基経の家司けいし(家政をになう職員)をつとめていた文章博士の藤原佐世すけよが「阿衡は単なる名誉職で、じっさいには仕事がない」と知らせたのである。これを聞いた基経は、「俺に仕事をするなということか」と怒り、一切の政務から手を引いてしまったといわれる。 通常、詔勅しょうちょくは中務省の内記と呼ばれる役人が起草するが、この文章をつくったのは内記ではなく、橘広相ひろみだった。 彼は菅家廊下の卒業生で道真の父・是善の教え子だった。学者として優秀で31歳の若さで文章博士に就き、その後は貞明親王(後の陽成天皇)の東宮学士(皇太子の教育係)となった。そして陽成天皇が即位すると、蔵人頭(天皇の秘書官長)をつとめ、続く光孝天皇の時代には文章博士に再任され、さらに参議にのぼった。続く宇多天皇も広相を「私の博士は、優れた学者」と呼んで重用した。 地方から返り咲いた 広相は、藤原基経を阿衡と謳われた殷の名宰相・伊尹にたとえたのである。しかしへそを曲げた基経は出仕しなくなった。これでは政治に支障を来きたすと考えた左大臣の源融とおるは、この勅書の可否について紀伝道、明経道、明法道などさまざまな立場の学者たちに勘申(先例などを調べて上申すること)を命じた。 ただ、権力者である基経に対する忖度そんたくが働いたようで、やはり「阿衡には職掌がなく名誉職にすぎない」との報告がなされた。橘広相はこの結果に毅然きぜんと反論したが、宇多天皇は仕方なく基経に政治がとどこおらないよう、出仕してほしいと頼んだのである。 広相も事態をはばかって引きこもるようになった。貴族社会では、広相を処罰すべきだという声が高まり始めた。一方、基経はそれでも顔を出そうとしなかった。これまでも気に食わないことがあると、出仕しなくなることがよくあったが、今回はかなり長期に及んだ。 基経がかたくなな態度をとったのは、宇多天皇が親政を目指したので牽制するためだったという。くわえて、広相が娘を宇多天皇に輿こし入れさせ2人の皇子をもうけていたのに対し、外戚でない基経が示威行動を見せたのだともいわれている。 このとき道真は讃岐の国司の長官(守)だったが、急ぎ帰京して学問的な(紀伝道の)立場から橘広相をかばい、基経を諫める意見書「奉昭宣公書」を提出した。理路整然としたその主張に、ついに基経も矛を収めざるを得なくなったといわれている。 阿衡の紛議は、基経が娘を宇多天皇に輿入れさせることで落着し、広相も処罰されずにすんだ。 宇多天皇の狙い ただ、近年は「宇多天皇が親政を目指したとは考えず、藤原基経と深刻な対立はなかった」(滝川幸司著『 菅原道真学者政治家の栄光と没落 』中公新書)という説が出てきている。また、道真の意見書が提出される前に、広相は許され、事件はすでに解決していたという説もある。ただし、この事件を機に宇多天皇が道真を厚く信頼するようになったのは間違いないだろう。 なお、繰り返しになるが、阿衡の紛議のとき、道真は都におらず、讃岐の国司として現地に赴任していた。この任官について、道真は左遷されたと認識しており、盛んに望郷の念を綴った漢詩をつくっている。 ただし、現地では善政をおこなったようだ。左遷された悲劇のヒーロー阿衡の紛議後の寛平3年(891)、中央に返り咲いた道真は、蔵人頭に就任、式部少輔(式部省のナンバー・スリー)に再任され、さらに翌月、左中弁(太政官の事務官僚)を兼ねた。 さらに2年後には参議になった。すでに藤原基経は寛平3(891)年に没し、後継者の時平はまだ21歳だった。だから宇多天皇は、道真を藤原一族をおさえる対抗馬にしようとしたのだろう。こうして890年代になると、道真が宇多天皇の支持を得て政治を主導するようになる。 宇多法皇像(画像=仁和寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons) 順風満帆な出世街道だったが 有名なのが寛平6年(894)の遣唐使の停止だろう。遣唐大使に任ぜられた道真は、「遣唐使を停止すべきだ」とする建白を出し、承諾されたのである。すでに唐の文化を学び尽くし、かの地の治安も悪化しており、60年近く遣唐使は派遣されていなかったからだという。 寛平9年(897)、宇多天皇は13歳の息子・敦仁親王(醍醐天皇)に譲位した。このとき宇多は醍醐に「道真と藤原時平の助言を得て政治をとるように」と訓戒している。このため醍醐天皇は、道真を右大臣にした。 昌泰4年(901)正月7日には、時平とともに従二位に昇進している。中級貴族が藤原氏と肩を並べた瞬間である。ところがわずか18日後、大宰権帥ごんのそちに落とされ九州の大宰府に左遷されることが決まったのである。 醍醐天皇は、宣命(和文体で記した天皇の言葉)でその理由を明らかにしている。 「朕が即位した際、父・宇多上皇の詔によって、左大臣・時平らと協力して政治をおこなうように命じられた。なのに低い身分から大臣にのぼった道真は、分をわきまえず権力を独占した。宇多にへつらい欺き、その気持ちを思いやらずに皇位の廃立をたくらみ、父子、兄弟の慈しみや愛を破ろうとした。これは皆が知っていることだ。ゆえに右大臣の地位はふさわしくないので大宰権帥とする」 「悲劇のヒーロー道真」は本当か つまり、道真は宇多上皇の寵愛をいいことに思い上がり、醍醐天皇に譲位させて斎世ときよ親王を擁立しようとしたというのだ。斎世親王は醍醐天皇の弟にあたり、道真の婿でもあった。 道真を天神として祀る北野天満宮の由来を描いた『北野天神縁起絵巻』(13世紀に成立)は、道真は無実であり、時平が醍醐天皇に讒訴ざんそしたとしている。道真自身も、「あめのした逃るる人のなければや着てし濡れ衣干るよしもなき」(『 拾遺和歌集 』)と、自分は濡れ衣を着せられたのであり、無罪だとする和歌をつくっている。 鎌倉中期の『 十訓抄 』、『 古今著聞集 』にも時平の讒言ざんげん説が見られ、以後、この説が後世に踏襲されていく。無実の罪で左遷させられた悲劇のヒーロー道真に対し、己の権力のために道真を追い落とした悪人時平という形が史実として定着していくのだ。 写真=iStock.com/Phurinee ※写真はイメージです 悪人とされた藤原時平の正体 では、藤原時平はどんな人物だったのだろう。摂政・関白となった藤原基経の長男として生まれ、昌泰2年(899)の29歳のとき左大臣(朝廷の当時の最高位)に任ぜられ、右大臣の道真とよく醍醐天皇を補佐した。好色な人で、叔父の妻を自分のものにしたといい、笑い上戸で、いったん笑い出すと止まらない話があった。 […]

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