「真田三代記」によると、鎌之助はもともと三河国野田城の城主・菅沼新八郎の家臣だったという。当時、羽柴秀吉と柴田勝家は織田信長の後継者ポジションを巡って対立しており、賤ヶ岳で秀吉に負けた勝家は北ノ庄城に籠城していた。秀吉に恩義のある真田幸村は、敵対す徳川の三河に出兵。野田城の城主・菅沼新八郎と由利鎌之助と対峙することとなる。
鎌之助は幸村の配下2人を手玉にとるが、次の穴山小助との勝負は実力伯仲となり、翌日に持ち越しとなる。
翌日の勝負では、しばらく打ち合った後逃げだす小助。
後をおう鎌之助だが、幸村の仕掛けた落とし穴に落ちてしまう。※鎌之助の武勇を気に入った、幸村の罠だったのです。
そうして、幸村の知略に感銘を受けた鎌之助は家臣になることを誓います。
関ケ原の合戦後、九度山に蟄居となった幸村に、鎌之助は従わずに江戸へと向かう。
そこで道場を開きながら、徳川の動静を探る。
そして、幸村の大阪入りに合わせて、鎌之助も大阪へと向かう・・・
由利鎌之助には同名の実在の人物がいると言われ、もともとは昌幸や幸村と争っていたのを、何度も幸村に負け、遂に捕まって家臣となった人物がそれです。
「立川文庫」などの創作本では、三国志の軍司・諸葛孔明のような、ミステリアスなイメージで描かれた幸村に対して、
何度も負けながら、遂に諦めて味方になるというエピソード(孟獲のストーリーに似ています・・)をもとに、実物の由利鎌之助という人物と結びついてできた架空のキャラクターというのがその真相のように思います。