真田幸村、それとも信繁? 正しいのはどちらなのか

真田幸村は真田信繁
目次

「幸村」=「信繁(のぶしげ)」その名について

現在、真田信繁と表記される機会も多くなっているのですが、本当に「幸村」と呼ぶことは間違いなのでしょうか。その人生について、謎の多い人物ならではの疑問なのかも知れません。

幸村=信繁、その名前の謎について考察してみたいと思います。

 

まずは、幼名や、諱(いみな)など確認のとれるものが以下、

幼名:弁丸

諱:信繁

通称:源次郎、幸村

法名:好白

官職名:左衛門佐(さえもんのすけ)

 

永禄10年(1567年)、真田昌幸の次男として生まれ、幼名を「弁丸」と言いました。当時、昌幸は武田信玄の母、大井氏の流れを汲む、武藤家の養子に入っていてその名を「武藤喜兵衛」としていました。育ったのも信州ではなく、甲斐の武田氏館周辺だったと思われます。

ちょうど弁丸が9歳になったころ、武田氏は長篠の合戦にて、織田軍に惨敗。真田家の当主、信綱(昌幸の兄)とその弟・昌輝(同じく昌幸の二番目の兄)を一度に失うことになってしまいます。そのため、昌幸は武藤家を出て、信州の真田家に復帰。家督を継ぎ、真田昌幸となりました。※この時に弁丸も同じく真田となったと思われます。

 

やがて元服するにあたり、源次郎や信繁といった名を父から与えられます。

※信繁の兄・信幸の通称は源三郎と言います。源次郎の方が先に生まれたが、母の身分が低かったたため、正室の子であった源三郎(信幸)が嫡男の扱いに、源次郎は次男とされた説もあるようです。

※信繁の名の由来は、文武両道の名将・武田信繁にあやかってつけられた可能性が高い。武田信繁は永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いで討死を遂げた。(昌幸も父・幸隆とともに戦闘に参加したものと思われます。)

以降、その死の一か月半前まで「真田源次郎信繁」、または官職付きの「真田左衛門佐信繁」の名前が様々な書状から「信繁」の名を信繁自信が使っていた事実が今も残っています。

 

「幸村」という名はどこから来たのか

通説では、「幸村」と称されたのは江戸時代の「難波戦記」からで、業者が大坂の陣で徳川を最も困らせた信繁の名を偽名の「幸村」に差し替えたのがその初見。との見解が今も有力です。ですが、それでは幸村という名がどこから来たのかという疑問は消えないのではないでしょうか。

例えば、寛政7年(1795年)に松代藩士として真田家に仕えた馬場政常が編纂した「滋野通記」によりますと、真田信之(信幸)が弟について近習に語った聞き書きというものがあり、その中で、「信繁は高野山に蟄居させられた際、幸村に改めたと聞いている。」との証言があったりします。

また、その他にも大坂夏の陣開戦のわずか3日前の書状に、幸村の花押の入った書状の写しが過去には存在していたという話もあり、実際に晩年になってから、信繁が幸村という名を使っていたという事実が浮上してきます。

大坂城へ戦いに赴くにあたり、兄と同じ「信」の字を名乗ることに抵抗があったこと。は推測可能であり、代わりに父と同じ真田家伝来の「幸」の字を受け継いだと考えるのが自然な気もするのです。(さらに、村の字は信之と幸村の姉、村松殿(小山田茂誠の嫁いだ)との関係性もありますね。)

 

人生の大半を不遇な状況で過ごし、散り間際に大輪の花を咲かせた「真田幸村」という戦国武将。前述しましたが、確固とした歴史的資料が乏しいのも事実で、たいへん謎が多く、それがまた彼の魅力になっていると言えるでしょう。

 

空想の域は出ないですけれども、晩年に本人自信が「幸村」という名を名乗ったということは十分に成り立つのではないか。と思います。

晩年、ひっそりと名乗られたその名が、輝きをまして大衆に受けいられたと考えても、おかしいという気がしないのです。

 

追記

前述であり、みなさんにも招致の事実ですが、兄の信幸が信之と変わったことについても、同じような配慮のうえであったと思います。

そのことと信繁→幸村の変更は、非常に関係性があるようにも感じます。

 

この記事を書いた人

目次