第18回「上洛」

NHK大河ドラマ「真田丸」ストーリー紹介

第18話「上洛」

家康が上洛したことで、ついに昌幸も秀吉(小日向文世)に臣従することを決意します。

 

目次

戦国武将として実力で生き抜いてきたプライドを抑えて渋々上洛した昌幸ですが、それを軽く扱う秀吉。

上洛した昌幸に対して、すぐに謁見してくれない秀吉。上杉景勝の上洛の際もすぐに会うようなことはせず、わざとしばらく放置して「格」の違いを見せつけるという行為にでます。卑賎の身から大出世を遂げた秀吉という人物の中にはこういった処世術のようなものが、いくつも身に染みてあったことでしょう。 ※昌幸の母・とり(恭雲院)が掛けた言葉とは?

 

昌幸が隙あらば秀吉を攻めるつもりだと察した信繁(堺雅人)は、父の無念な思いを晴らすため秀吉に直談判します。

この当時、1587年(天正15年)は昌幸40歳、信繁21歳。人生50年と言われたこ時代にあって、昌幸は晩年にさしかかった年齢に。

一方の信繁はまさに働き盛りの年齢ということになります。

「真田丸」のストーリー前半部では、父・昌幸の謀略が次々と繰り出され、視聴者も少し気を抜こうものなら「どういう状況なのか訳が分からなくなる」というほどの凄味がありました。しかし物語は父から、息子たち、信幸・信繁へと徐々にシフトする。ということのまさに序盤といえるでしょう。

※第二次上田合戦では再度、昌幸の活躍はあるわけですし、そんなに早くに真田昌幸という人が老いていったとも思えないのですが(この時の秀吉への謁見は、なんとか徳川の真田攻めを回避。自身が大名というポジションを確立できた時期。とも考えられます。)、真田信繁という人物の歴史的資料の少なさ(前半生の目立った活躍の資料がない)、に起因すると思います。逆に言えば、信繁の大坂の陣での活躍が「あまりにも突然でセンセーショナル」だったと言うことです。早めに昌幸に「老い」てもらわないと、辻褄あわない。みたいなこともあるのではないでしょうか。

 

昌幸を驚かせた天下人・秀吉の一言。真田家は思わぬ道に!

これは、真田昌幸を徳川家康の与力に編入することを決めた。ということでしょう。

※与力(寄騎)・・・大名それぞれの家臣統率における重要なシステムになりますので、時代(または支配する戦国大名)によって意味が変化する言葉ですが、今回の場合は、秀吉が昌幸を陪臣(家臣の家臣)とはせず、直接的に臣従させる一方で、徳川家康(寄親にあたる)に附属させ、この二者の軍事力を効率的に統率しようと考えたものと思われます。※与力(寄騎)についての詳細はこちら

とにかく、犬猿の仲とも言える徳川家康の、あろうことか与力にされてしまった真田昌幸。まさに絶句の一言でした。

 

嬉しい再会

秀吉とのことで少し気落ちもしている昌幸に嬉しい再会が待っていました。信繁・信幸の姉「松」との再会です。

※推論になりますが、松が出雲阿国の一座のメンバー」(※もちろんフィクションですが)という設定で生きていたことは、この先、何らかの大きな活躍を期待させます。というのも、

①、ストーリー序盤でも馬を颯爽と乗りこなすなど、身体能力が高いエピソードがあった。

②、全国を回る巫女という職業に、「情報収集活動」という忍び的な一面があったこと。

松は後に「村松殿」と呼ばれ、後の信繁の名、幸村の「村」の字の元になったという説もあるくらいです。忍びのような、あっと驚く松の活躍がドラマ中でご覧になれるかもしれません。

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