出雲阿国(いずものおくに)

前々回の吉野太夫(中島亜梨沙さん)に続いて、今回の第17回・「再会」では、出雲阿国(シルビア・グラブさん)が登場!

三谷幸喜さん脚本の真田丸では、こういった、当時の文化・世俗を象徴するような人物や逸話が視聴者サービス的に放り込まれてくるのも楽しみのひとつです。

今回登場の阿国(おくに)は、どんな人物だったのでしょうか?

「この辺りの人物も今後登場するのかも?」という推測も交えつつ、最終的にはかなり横道にそれながら、記事を投稿したいと思います。

 

目次

戦国の時代を生き抜いた歌舞伎の創始者

阿国は、かぶき踊りを創始したことで知られている戦国期の女性芸能者です。
出雲は中村の里の出身(※諸説あり)で、出雲大社の巫女となってから、出雲大社の勧進(※寺社などの建立・修繕などのため寄付を募ることを言います。)のため全国を旅しました。そして、行く先々で、阿国のかぶき踊りはたいへんな評判になったと言われています。

 

京の都でも認められた「かぶき踊り」、やがて天下人の御前でもこれを披露。

その後、京でも人気を得ることに成功した阿国(※京の世論が全国の世論であるとも言えたこの時代。この地で人気を得たことは、阿国の人気を決定づけたと言えます。)は伏見城にも参上。秀吉以下に対しても、たびたびかぶき踊りを披露したのでした。※伏見城は秀吉が関白職を秀次に譲った際に、自らの隠居所として建設された城

阿国の踊りの内容は、当初のかわいらしい「ややこ踊り」から、傾奇者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面などを描く、エロティックなものへとやがて進化していきます。
阿国自身が遊女的な側面を持っていたとも考えられ、その後のかぶき踊りは遊女屋でも取り入れられると、わずか10年あまりで瞬く間に全国へと広まっていきました。

 

阿国の夫は絶世の美男子、名古屋山三郎

この阿国の夫と言われるのが、こちらも歌舞伎の祖と伝わる名古屋山三郎(さんさぶろう)。(※諸説あり)
蒲生氏などに仕えた、れっきとした戦国武将なのですが、美しい顔立ちに加えて、茶道や和歌にも精通した、文化的教養も高い人物でした。
※さらに、織田氏とは縁戚の関係にあったとも言います。

そして、妹が嫁いでいる森忠政の家臣として仕えたころ、主君の忠政は山三郎をたいへん気に入り、次第にその家中でも存在感を増していきます。

 

名古屋山三郎と井戸宇右衛門

しかし、男の嫉妬というのも食えないもので、三十郎を快く思わない同僚の井戸宇右衛門という人物と、たびたび、口論などのいさかいを起こすことになってしまいます。
結局、抜刀にまで発展する喧嘩の末、宇右衛門に切り伏せられ山三郎は死亡してしまうのでした。

名古屋山三郎とは、たいへんの仲の悪かったと伝わるこの井戸宇右衛門、という人物。
元は名家の出身で、やがて森長可(ながよし)に仕え、その跡を継いだ忠政を補佐して、重臣格までのし上がる出世を果たしていきます。

 

時は慶長5年。第二次上田合戦へ

慶長5年(1600年)、主君の森忠政は、その領地を信濃・川中島に領替えされます。
そして、この年の関ヶ原の戦い。
東軍についた森氏は、徳川家康の命で真田氏の抑えとして行動。
森忠政は、第二次上田合戦(真田昌幸、信繁vs徳川秀忠)の際には海津城で待機。活躍のチャンスを狙います。

そして、忠政は上田城攻撃の援護のため、井戸宇右衛門に単独での真田への牽制役を命じます。
寡兵にも関わらず、宇右衛門の兵は真田軍に対して奮戦。
ですがその後に、宇右衛門配下の葛尾城が信繁の攻撃を受けた際、宇右衛門の不在中に独断で城門を開けて真田軍を呼び込み、二の丸まで攻め入られるという事態が起きてしまいます。※かねてより森家中での井戸家への待遇に不満を持っていた宇右衛門の家臣が取った行動とも。

当然、宇右衛門も非常に仲が悪かった名古屋山三郎を優遇する忠政に不満を覚えていたと言い、この時期、奉公を怠るなど忠政への反感を露にしていたと言います。
当然、これらの出来事によって主君・忠政と宇右衛門の信頼関係も悪化していったのでした。

 

名古屋山三郎 VS 井戸宇右衛門

慶長8年(1603年)、森氏が美作国に転封となり、新しい拠点となる城の建設の必要性が出てくるとその場所をめぐり、宇右衛門は忠政と対立。
※この時に忠政は山三郎に宇右衛門の誅殺を命じたと言われています。

後日、建設現場で居合わせた宇右衛門と山三郎は口論となり、抜刀して斬りかかった山三郎を宇右衛門は逆に返り討ちに。
しかし、他の忠政の家臣も宇右衛門の誅殺を指示されており、武芸に優れた者数人で切掛かかられ、討ち果たされてしまいます。※この後、井戸家は断絶。

 

余談です。

余談ではありますが、井戸宇右衛門は名古屋山三郎のような美男子とは違い、どちらかと言えば不細工であったそうです。※ふたりの主君・森忠政は、信長の近習として仕えたあの、森蘭丸(らんまる)の弟にあたります。森家の人は基本的に容姿端麗です。勝手なイメージですが、たぶんあたっています。かなり余談です。

そして、さらに余談。名古屋山三郎は豊臣家とも関係があったと言われ、一説には茶々(淀君)との関係、つまり秀頼の父親との可能性を指摘される人物でもあります。※真田丸の今後の見どころとしては、「秀頼の父親は誰か」という問題をどのように扱うのか?という点にあるのです。

一方の阿国、出雲に戻って尼になったという伝承もあり、現在も出雲大社近くに阿国のものといわれる墓が現存しています。

阿国から始まり、山三郎、そして井戸宇右衛門へと繋いだ記事になりました。
こうして歴史は今日も、連続した時と事実をストーリーとしてつむいでいくのでした。

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