千利休、切腹の謎

切腹を命じにきた秀吉の使者に対して、全く動じず利休は静かに口を開いて言ったといいます。

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「茶室にて茶の支度が出来ております」。

しかし、切腹を命じられた真相については諸説あり、本当のところはわかっていません。

 

一般的に言われている説には、
● 秀吉が利休の娘に近待するよう要求したが拒否されたという説
● 利休が秀吉の飲む茶に毒を盛ろうとした説(黒幕に家康の説など)
● 利休と秀吉の芸術的思想の対立があったとの説
● 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説
● 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしたとの疑いを持たれたという説
● 利休の理解者であった秀長死後の政争に巻き込まれたという説
など、ざっと挙げただけでも多岐に渡り、枚挙に暇がありません。

どの説が正しいとか間違っている、などといったことよりも、様々な事情が絡み合い、秀吉、利休、両者の関係は冷えこんでいったのではないでしょうか。

 

門弟・山上宗二が後世に伝える利休像

そ して、現在に伝わる「わび茶」の完成者としての利休のイメージは、『南方録』を初めとする後世の資料によって大きく演出されたものであるとも言われ、その中の精神論が強調されるあまり、かえって利休の茶の湯を不明確に伝えてきたという側面があります。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二の 『山上宗二記』が第1級の資料と言われ、この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し、61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶 の湯を始めたといい、つまりは秀吉に仕え、死までの10年間が利休のわび茶の完成期だったということになります。
※山上宗二は小田原征伐の際に秀吉により処刑されています。

 

豊臣政権を影で支えた、秀長の死。そして・・・

天正19年(1591)年1月、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没。兄・秀吉からの信頼も厚く、その片腕として辣腕をふるい、なんと言っても秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物でした。その秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言したとも言われ、秀長の死は政権の様々なところにひずみをもたらすことになります。
その死から1ヵ月後の2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て、堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受けます。

利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われました。(※正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が置いたとのこと

大徳寺の山門は秀吉もくぐってお り、上から見下ろすとは無礼極まりないというのがその理由でした。これについて、秀吉は利休に赦しを請いに来させることにより、上下関係をハッキリと分からせようとしたとの意図があったと考えられています。

 

こうして、秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家が利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻・寧(北政所)、あるいは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言します。

ですが、この申し出を断る利休。

 

また、「秘伝の作法」に見られるような権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光(じゅこう)も、師の武野紹鴎(じょうおう)も否定したこと。

ここに至り、秀吉に頭を下げるのは先人と、そして茶の湯そのものも侮辱することになるのではないか・・・
利休が謝罪に来ずに、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りは沸点に達します。
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔。
26日、秀吉は利休を堺から京都に呼び戻す。
27日、古田織部や細川忠興ら弟子たちが利休を救う為に奔走。
28日、冒頭の使者が訪れ、利休に「切腹」を申し伝えます。

全く動じず利休は静かに口を開きました。

「茶室にて茶の支度が出来ております。」

こうして使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹。享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒されたのでした。

 

利休を切腹へと追いやった秀吉のその後

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界します。晩年の秀吉は、自らの利休への仕打ちをたいへん後悔したと言われ、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建立させたりしました。

死罪があきらかに行き過ぎていたことを秀吉自身もわかっていたのかも知れません。

それから17年後の1615年。大坂夏の陣の戦火は堺の街をも焦土と化し、豊臣家は滅亡します。

 

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