氏政、徹底交戦の理由~北条氏政③~

歴史上、初の戦国大名とも言われる、後北条氏の初代・北条早雲(伊勢宗瑞)から始まる、関東・北条家。

群雄割拠、戦乱の最中にありながら100年にわたり、民を慈しむ善政をしく国家を建設しました。

その北条家も5代氏直(実質的支配者は氏政)の時代、秀吉に滅ぼされてしまいます。その際には、講和派であったと言われる当主・氏直と、あくまで徹底交戦を主張したと言われる、父・氏政。

北条家を滅亡においやった張本人として、後世、暗君として評価されてきた氏政が、最期までプライドを貫き通し、秀吉と対峙した理由はどこにあったのでしょうか・・・

 

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謙信・信玄を小田原城で破った戦歴

若かりし日の北条氏政は、上杉謙信、そして武田信玄率いる当時の最強軍団に小田原城を攻められていますが、いずれもこれを撃破。輝かしい戦歴を誇っていました。氏政が小田原城に籠城してさえ戦えば、秀吉の大軍であろうとも撃退が可能と考えたことは、何ら不思議なことではありません。

【解説】

謙信vs氏政・・・永禄4年(1561年)、上杉謙信が関東・南陸奥の諸大名とともに、大軍で小田原城を包囲(小田原城の戦い)。北条氏は窮地に陥りますが、氏政は父・氏康主導のもとで籠城戦で対抗。見事、上杉軍を撃退しています。この際には、武田信玄の支援もあったと言われ、越後に撤退した謙信が信玄と第4次川中島の戦い戦うと、氏政信玄と呼応して北関東方面に侵攻しました。一進一退の攻防を繰り返しつつも、上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返しています。

信玄vs氏政・・・永禄12年(1569年)9月、信玄は小田原城を攻撃。氏政は父・氏康と共に籠城して武田軍を撃退すること成功しました。※この際、北条氏は甲斐へ引き上げる武田軍の挟み撃ちを試みますがこれには失敗。(三増峠の戦い)甲斐への帰国を許してしまうこととなっています。

そして北条家は、小田原城周辺にも豊臣軍に対抗するため広大な外郭を建造。山岳部から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んでおり、これは、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいたとも言われています。

 

同盟軍の存在

小田原城だけでなく、氏政はかなり早い段階から領内の支城の増強にも着手。これらは、秀吉が長宗我部の四国を攻めた段階で始まっており、氏政からすれば、秀吉との戦いはすべて前提であったということでしょう。そして、ひとつの大きな理由に徳川家康・伊達政宗との同盟関係があります。三者をあわせると、東北・関東・東海を結ぶ一大勢力に及び、氏政の籠城戦を後押しする一因となりました。後、家康は同盟からいち早く離脱してしまいますが、伊達政宗の存在に一縷の望みを託し、秀吉には和平に乗るそぶりを見せつつも、「戦いの準備」を着実に進めていくことになります。

 

氏政の敗因

しかし、その伊達も秀吉に臣従。後詰めを失った戦いに北条氏は孤立無援となってしまい、これで勝利への展望はゼロになってしまいます。遂に降伏を決意しますが、秀吉に主戦派と目された氏政と他3名(氏照、大道寺政繁、松田憲秀)は切腹。その生涯を追えることとなりました。

最期までプライドは捨てずに戦うことを選んだ氏政。大きな時代を読み切れず、滅び去ることとなりました。

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