大徳寺~一休さんを輩出した大本山と千利休~

千利休の切腹の理由ともなったと言われる、「大徳寺三門(※寺院を代表する正門のこと)改修に当たり、利休が自身の木像を楼門の二階に設置、その下を秀吉に通らせ、秀吉を激怒させた。」という逸話。その舞台となった臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺。

京都でも有数の規模を有する禅宗寺院は、境内に仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を現在も残しています。

大徳寺とはとのような歴史を持つ寺院なのでしょうか。

 

目次

座禅修行に専心。個性を放つ寺院へと変化

大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、播磨の守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれました。11歳で出家し天台宗を学びますが、のちに禅宗に移行。そして、赤松円心の帰依を受けると、洛北紫野の地に小堂を建立。これが大徳寺の起源といわれています。

後醍醐天皇も当寺を保護したといい、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山(臨済宗の寺格、官寺制度)のさらに上位に位置づけるという綸旨が発せられるに至りました。
しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、大徳寺は五山からも除かれてしまいます。そんな経緯もあり、世俗化しつつあった五山十刹から大徳寺は自ら離脱。座禅修行に専心するという独自の道をとりました。臨済宗寺院の中でも、大徳寺や妙心寺は在野的立場にあり、「林下」(りんか)と呼ばれています。※対義語には叢林(そうりん)

 

その個性から、名僧・一休宗純を輩出。やがて、茶の湯の文化サロンへ。

こうして大徳寺は独自の道をとったことにより、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄えることになります。

やがて、名僧・一休宗純(※言わずと知れたアニメ・一休さんのモデル。実際のところ、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。)を輩出。侘び茶の創始者である村田珠光など、当時の文化を担う著名人が一休に参禅したと言います。こうして大徳寺は、茶の湯の世界とはたいへん縁の深い、文化サロン的な役割を果たすことになっていきました。※享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)では当初の伽藍を焼失しますが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興させたと言い、当時の大徳寺と一休宗純の人気の高さが伺えます。

その後も、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめとする多くの茶人が大徳寺と関係を持ち、豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けました。※現在も国宝に指定される文化財が数多く残っています。

 

一休宗純と、禅宗の教義・風狂

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわったという一休宗純。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされるエピソード。他にも、正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたなど、奇抜な言動をとった逸話が散見されるのですが、これは禅宗の教義・風狂(ふうきょう)の影響とも言われます。(※中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)から逸した行動を、本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価する考え方のこと。)

こうした世界観は、千利休の侘び茶の精神にも多大な影響を与えたと考えられます。利休の切腹も、無粋な支配者へのアンチテーゼだったのかも知れません。

 

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