豊臣秀次と秀勝、秀保。その父・弥助。

叔父・秀吉が出世、天下人となったことでその運命を翻弄された兄弟とその父親。かれらの人生とはどのようなものだったのでしょうか。

 

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父・木下弥助(三好吉房)

秀吉(木下藤吉郎)の姉・とも(瑞龍院・日秀尼)を妻として、その間に秀次、秀勝、秀保をもうけました。弥助の出自については諸説あり(というか記録が残っていない)、馬貸しや、あるいは最下層の貧民、または、大工・鍛冶など技術者集団の出身などさまざまなです。義弟・秀吉の出世に伴い、士分に取り立てられることで、木下弥助を名乗りました。
そして、後に長男・秀次が三好康長の養子となると、弥助も三好姓を称して三好吉房を名乗ります。(※官位は武蔵守)

天正19年(1591年)、今度は、秀次が改易された、織田信雄の旧領・尾張・伊勢北部5郡を与えられて大大名となると、吉房もその下で尾張犬山城主となります。

 

長男・豊臣秀次

4歳のころには人質となっていた秀次

元亀3年(1572年)、浅井氏の小谷城を攻略する織田信長の軍勢の中に秀吉の姿もありました。秀吉は小谷城の支城に対して次々と調略を試み、宮部城主の宮部継潤を巧みに勧降。この際、宮部氏に人質として送られたのが当時4歳の秀次で、この時の名を治兵衛とした記録があります。

 

三好一族の養子へ、時勢の変化もあり大名に出世します

そして3年後の天正3年(1575年)、三好一族の三好康長は織田信長に降ると、家臣として厚遇されるようになります。天正10年(1582年)本能寺の変の信長死後、康長は連携を強めるために秀吉の甥・秀次を養子としてもらいます。
再び養子とされた秀次は三好孫七郎信吉と名乗ります。しかしその後、康長が出奔。消息が不明となり、天正11年(1583年)頃には秀次(三好孫七郎信吉)が残った三好家の家臣団を率いる立場となり、2万石の大名となりました。

 

鶴松の死。秀次は秀吉の養嗣子となり正統な後継者に

天正19年の1月に豊臣秀長が、8月には秀吉の嫡男・鶴松(捨)が相次いで死去します。この年の11月(※諸説あり)に秀次は秀吉の養嗣子となったとされており、後継者にすることを決めたと思われます。秀吉から秀次へ、関白職の世襲のために秀次の官位は急遽引き上げられ、権大納言となった後、すぐに内大臣に任ぜられました。

 

秀頼誕生、状況が一変します

ところが、継承が済んだ後になって、茶々(淀殿)が懐妊。当初、秀吉は平静を装っていたと言いますが、文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で秀頼(拾)が産まれると、その報せを受けた8月15日には名護屋城を発ち、25日には大坂に来て我が子を抱きかかえたと言います。この秀頼の誕生で、従来、秀吉が秀次に関白を譲ったのは早計であったと思い直したとされていますが、そもそも、秀頼の誕生に不明な点が残り、秀吉自体も再び自らが子供を授かるなどと言うようなことは考えていなかったのはないでしょうか。(※詳しくは、投稿記事 ~茶々、その人生と秀頼・出生の秘密~をお読みください。)

 

次男・秀勝の死

天正13年、浅井家の遺児で茶々(淀君)の妹にあたる、江(崇源院)を正室に迎えて、その間には完子が産まれています。(※余談ですが、豊臣完子は大正天皇の皇后である貞明皇后が、その末孫にあたることから、昭和天皇や今上天皇の先祖の1人となり、秀勝の血は現代にも脈々と受け継がれていると言えます。)

文禄元年(1592年)文禄の役、秀勝は兵8,000の兵を率いて九番隊の大将として出征。配下には細川忠興らを率い、壱岐島から朝鮮国の巨済島に渡りますが、同島で半年ほど滞陣していた間に病を発して戦病死してしまいます。享年は23歳。あまりにも若く、早すぎる死でした。

 

三男・秀保の死

天正19年(1591年)1月、後継ぎのいない、病床の叔父・秀長の5歳になる娘・おきくと祝言をあげ、秀長の養嗣子とな ります(※秀保は13歳)。同月に秀長が死去するとその跡を継ぎ、大和郡山城主に。秀長の家老・藤堂高虎などが秀保の後見役を務め、大和・紀伊2か国を継 承します。この際、従四位下、参議近衛権中将に任じられ、豊臣姓を下賜されました。

文禄4年(1595年)4月16日に急死。享年17歳。兄らと同じく、早すぎる死と思わざるを得ません。

 

秀次、切腹事件

父・弥助は連座して配流に

文禄4年(1595年)6月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がります。

7月15日、高野山に福島正則・池田秀氏・福原長堯の3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に賜死の命令を告げます。

7月16日、秀吉は秀次の首を検分。しかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶(8月2日早朝、三条河原にて、まだ幼い秀次の子4名と正室・一の台、側室・侍女・乳母ら39名の全員が斬首。)をはかったのでした。一方、秀次の父・弥助も連座して改易、讃岐国に流罪となっています。

※秀次の切腹事件については新説があります。詳しくは投稿記事 ~秀次の切腹に新説~をご覧下さい。

※秀次の切腹事件の際、2人だけ生き延びた息女がおり、その内の1人が真田信繁の側室となりました。詳しくはこちら。

 

運命を翻弄された一家

本来であれば権力などとは無縁であったはずの一家は、親族である秀吉の史上・類を見ない大出世にその運命を翻弄されました。

秀次切腹事件の判然としない不可解さはもちろん、秀勝、秀保の死に関しても疑わしさが深まるばかりと言わざるを得ません。

父・弥助(三好吉房)は、秀吉死後に赦免されて京都に戻った後、慶長5年(1600年)に本圀寺に一音院を建立。その子供、そして孫たちの菩提を弔い、晩年は法華の行者となったと言われています。

慶長17年に死去。享年は79歳。

 

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