伊達政宗~その半生と野望・秀吉臣従まで~

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コンプレックスに悩んだ少年時代

永禄10(1567)年、父・輝宗と母・義姫(保春院)の間に、伊達家の嫡男として米沢城に生まれたとされる政宗。幼名は梵天丸と言いました。

4歳(※諸説あり)のころに天然痘を患ったせいで右目を失明。そんなこともあってか、幼少のころは気弱な性格であったと伝わっています。

そして、政宗が8歳のころに弟・竺丸が誕生。家臣団の中には、伊達家の嫡男の梵天丸をさしおいて、竺丸こそが伊達家の家督を継ぐのに相応しいと考えるものも出てくるのでした。

 

師・虎哉宗乙との出会いと影響

そんな気弱で消極的な政宗に対して輝宗は、臨済宗妙心寺派の名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)を教育係に迎え入れ、政宗を文武両道の戦国武将へと育てるべく託します。この虎哉宗乙と政宗の関係は終生に渡って続き、生涯、師弟の関係であったと伝わっています。政宗は武士としての心を、深く虎哉宗乙によって鍛え上げられました。

 

独眼竜の由来

ある時、虎哉宗乙は政宗に、後唐の始祖・李克用の伝説を話したと言われています。漆黒の武具で全軍を率いて、周りからその勇猛さを恐れられていた李克用。彼こそが隻眼で「独眼龍」の異名を持つ猛将でした。李克用の話を聞いた幼き日の政宗は胸を熱くし、自らも李克用のような武将になろうと決意。心を強くしたと言います。

 

政宗、生涯にわたる重臣「小十郎」

そして虎哉宗乙の他にもう一人、政宗に影響を与えたのが、初代・小十郎こと片倉景綱です。輝宗から政宗の傅役(もりやく)を命じられた景綱は、政宗のコンプレックスの源が右目にあると判断し、その目をえぐりとったと言われています。主君の嫡男に対してのこの荒療治に、自らも身命をとして臨んだとおもわれる景綱の行為。その後も景綱は政宗の主要な戦いにはほぼすべてに参加し、そのいずれにおいても伊達氏の危機を救い、生涯に渡って政宗の重臣・軍師として仕えることとなりました。

 

元服、成長した梵天丸は、独眼竜政宗へ

天正5(1577)年11月、(※信長が死去する5年前です)政宗は僅か11歳で元服。伊達藤次郎政宗と名乗ります。「政宗」は、伊達家中興の祖と言われる9代・伊達政宗から拝領したものであり、父・輝宗の息子への期待や想いが伝わる命名と言えるでしょう。そしてその4年後、伊達氏と隣接する相馬氏との合戦で初陣を飾ると見事に初手柄を立てます。この際には既に、金色の細い月形前立の甲冑を被り、五枚に分割される胴は鉄板に黒漆塗であったと言い、その出で立ちはまさに幼い日に憧れた李克用さながらで、気弱な少年・梵天丸の姿はそこになく、天下覇権の制覇を志す「独眼竜政宗」へと成長した瞬間でした。

そして天正12(1584)年、18歳で家督を譲られた政宗は、第17代伊達家当主となったのです。

 

父・輝宗の非業の死

当主となった政宗、初の戦いは天正13年(1585年)小浜城主・大内定綱との戦いです。支城の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの行為として城中の男女800名を撫で斬り、皆殺しにして落城させた政宗でしたが、この後、所領安堵の件などの礼に来ていた畠山義継(大内方)に、父・輝宗が見送りに出た所を拉致されてしまいます。救出に駆けつけた政宗に対して輝宗は自分ごと畠山を撃てと指示。政宗の鉄砲100丁が火を噴き、輝宗は畠山を道連れにこの世を去りました。(※一説には政宗による謀殺とも

 

政宗、奥州王への道を目指す

この事件が引き金となり、政宗は奥州統一へと動き出します。佐竹・蘆名などの反伊達勢力・3万の大軍と戦った人取橋での戦いを経て、天正17年までの間に、政宗は連戦連勝。摺上腹(すりあげはら)合戦で佐竹・蘆名連合軍を打ち破り、奥州南部をその手中に収めることに成功しました。

 

この頃、天下の趨勢は秀吉へ

ちょうどこの頃(天正17年)、秀吉は政宗に上洛を求めています。政宗が奥州統一を目指して戦っている間に本能寺の変は起き、天下は秀吉の元へ急速に近づいていったのでした。

翌年に小田原征伐に加わるように秀吉から使者が来ると、当初は判断に迷った政宗もやがて参陣。こうして、有名な「白装束」での謁見と繋がっていくのです。

 

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