真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、武将・真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる想像上の10人の家臣のこと。
講談から生まれた信繁の人気と伝説が進化して生まれました。
個性豊かな登場人物たちは、あくまで伝承上の架空の人物ですが、歴史的な由来を持つ人物も多数存在しています。
立川文庫以来の真田十勇士、基本的なメンバー構成は
以上、上記の10人となります。※ただし作品によっては多少の差異が見られます。
原型は、江戸時代中期の小説『真田三代記』に見られると言いますが、「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、大正時代に刊行された立川文庫。
以後の真田幸村と10人の家臣の「ヒーローとしてのイメージ」は、立川文庫の数々の人気作品によって定着したと言えます。※逆に家康の「狸おやじなイメージ」も定着させました。
そして現在に至るまで、多くの派生作品が制作されており、彼らに影響されたキャラクターが数多く生み出されているのはみなさんご存知のとおりでしょう。
それぞれメンバーには、実在の人物がモデルであるとする説があったり、中には実在を唱える説まで存在します。これは、真田家と忍び集の深い関わり(真田氏の領地付近に戸隠流忍術の戸隠の里があり、そこから真田イコール戸隠流忍者の主人との説)から生まれたとも考えられます。※詳しくは、投稿記事「真田と忍者の関係」をご覧下さい。
「ヒーローとしての真田幸村」の登場は、寛文12年(1672年)に書かれた軍記物『難波戦記』。そして、元禄期には小説『真田三代記』が成立し、真田昌幸・幸村・大助の三代が徳川家に対して奮戦するストーリーが人気を博しました。
この『真田三代記』において、すでに猿飛佐助と望月六郎をのぞく8人の原型が登場(筧十蔵、霧隠才蔵の元になったと思われる筧十兵衛、霧隠鹿右衛門が記載)、「真田もの」の講談の流行によって、真田主従は民衆のヒーローとなっていきました。
明治後期の講談は神田伯龍『難波戦記』(1899年)などの口演速記本も書き残されており、講談師たちは『真田三代記』にはない、忍術つかいの「猿飛佐助」を生み出し、「霧隠才蔵」ら真田家の英雄豪傑の物語を膨らませていきました。
1911年に大阪で発刊された立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが中心となって、前述の講談などを読み物として再編集したもの。これらは、結果としてその後の大衆文学に大きな影響を与えるだけでなく、当時のエンターテイメントとしての機能を果たしました。この立川文庫においては『知謀 真田幸村』(第5編)に続き、
『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』(第40編、1914年)
『真田三勇士由利鎌之助』
『真田三勇士忍術名人霧隠才蔵』(第55編)
を「真田三勇士」とする三部作が創られ、
次いで『真田家豪傑三好清海入道』など、真田家の豪傑の逸話をあつめた作品が刊行。
大人気となって、『真田十勇士』が刊行されています。
大ベストセラーとなった立川文庫は、次いで新しいメディアになりつつあった映画でも、忍術使いの猿飛佐助を中心とする作品群が矢継ぎ早に制作されました。