真田家、その忍びの流派

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戸隠流→甲州流→甲陽流へ

そのルーツから戦国の世の厳しさを経て成長・再編、幾度の情報戦・ゲリラ戦に打ち勝つ

真田家は滋野氏をルーツとし、その成り立ちからすでに忍者との深い関わりがありました。

では、その流派とは何だったのでしょうか?伊賀や甲賀との関わりは?考察していきたいと思います。

 

まずは、真田家の領地内の上田郷には「戸隠の里」と呼ばれる戸隠流忍術発祥の地があります。戸隠流の歴史は平安時代末期までにさかのぼり、仁科大助という人物が戸隠の修験道を学び・習得。主君の木曾義仲が敗れると、伊賀に渡り、伊賀流をミックスして完成させた流派と伝わります。

その後真田家では、幸隆の時代に修験者を忍びとして取り込んでいくことに成功。その後の真田家の礎を築いていきます。

 

武田家臣の時代にさらに発展する真田の忍術

この後、武田家臣団入りする真田幸隆。その息子たちも武田二十四将に数えられる活躍をみせ、外様でありながらも一定のポジションを獲得。

この武田家の武田信玄の方針が、真田忍術にも大きな影響を与えます。

武田信玄は、自家に伝わってきた兵法に加え、伊賀流・甲賀流を参考にした「甲州流」を考案、さらにこれを組織化することで、一大諜報機関にまで発展させました。

孫子の兵法の一説、「風林火山」を旗印に加えた信玄。孫子によれば戦争はその準備・前段階(諜報・スパイ活動)を最重要課題においており、当然、信玄もこれにならったと思われます。当時、最先端の戦争技術を自軍に取り入れ開発した信玄は、パイオニアであったとも言えるでしょう。

 

そして甲陽流へと進化する・・・

そうして組織改編を繰り返すうち、甲陽流が分派・確立していったのではと言われます。

その組織メンバーには、武田家重臣の、馬場信春、山県昌景の他、武藤喜兵衛(真田昌幸)の名前もありました。

さらに、信玄が作った諜報機関は、勝頼を経て、昌幸に譲り受けられたとの説もあり、これが事実であればたいへんな力となっていたのに違いありません。

信繁(幸村)の死後、「真田十勇士」のような個性的かつ魅力的な創造上のキャラクターたちが生まれたのも、納得できるお話しかと思います。

 

甲陽流忍術についての詳しい投稿は後日・・・

 

 

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