沼田領問題・関連記事– tag –
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猪俣邦憲(くにのり)
武将列伝北条家に代々仕えた一族、富永氏に生まれ、猪俣氏に養嗣子として入った以後は、猪俣邦憲(くにのり)を名乗りました。 北条氏政の弟・氏邦に仕え、上野(こうずけ)侵攻の先鋒として出陣。後に氏邦から箕輪城代、次いで沼田城代に任じられています。(※邦憲と呼ぶのはこの頃から) 【昌幸の叔父・矢沢頼綱に負けた猪俣邦憲】 激動の天... -
名胡桃城主・鈴木重則(主水)
真田家臣団【名胡桃城事件で切腹】 鈴木主水(もんど)とも呼ばれる真田家臣。鈴木重則。 天正17年(1589年)に秀吉の裁定によって解決した沼田領問題。 その際、真田領としての存続を認められた、名胡桃城の城主になります。 しかし、いったんは解決をみた沼田領問題でしたが、和議を反故にして謀略を仕掛けてきた北条家臣の猪俣邦憲によって、名胡桃... -
沼田領裁定
真田丸を楽しむポイント北関東の要衝でもある沼田城。軍事上の重要拠点として、上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となりました。武田氏の滅亡、そして本能寺の変後は真田信幸の支配城として、後北条氏とこの地を争うことになります。 ※北条氏との争いに至る経緯の詳細は、下記をご覧下さい。 ●昌幸がこだわった沼田領、その攻略戦 ●本能寺の変後... -
沼田領問題勃発。昌幸vs家康、対決へ!
真田丸を楽しむポイント【沼田領問題勃発、昌幸は家康と断交を決意】 天正壬午の乱以後、天正13年(1585年)の4月から6月にかけて、徳川家康は甲斐の国に出陣し、甲府に入っています。名目は、沼田・吾妻領の北条への引き渡しの件についての昌幸への説得でしたが、実際のところは、その軍事力を背景にした圧力を真田家に与えることにより、沼田領の問題を解決したい... -
戦(いくさ)巧者の矢沢頼綱②
真田家の人々真田幸隆の弟、昌幸から見れば叔父にあたる矢沢頼綱。当初は独立性を保持した活動をしていますが、昌幸が継いだ真田家が大きく成長していくにつれ、頼綱の矢沢家はその筆頭家老としての地位を確立していくことになります。 そしてこの頼綱も、幸隆や昌幸に負けず劣らずの戦巧者(いくさこうしゃ)で、なんども攻め込まれた沼田城を僅かな兵で... -
板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)
徳川家臣団真田丸に登場する北条方の武将・板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)。ドラマでは、山西惇(やまにしあつし)さん演じる戦国武将。史実の流れを考えれば、前半には滅亡する予定の北条家。たくさんの家臣を擁するその家中において、板部岡江雪斎がたびたび劇中に登場する理由など踏まえての投稿記事になります。 【初め真言宗の僧、そし... -
昌幸がこだわった沼田領、その攻略戦
真田丸を楽しむポイント【家康との遺恨の種になる沼田領。昌幸はどのようにして手にいれたのか】 天正2年(1574年)に真田家当主・幸隆が死去。家督を昌幸の兄・信綱が継ぎますが、翌年の長篠の戦では信綱だけでなく、次兄・信輝までもが討死し、三男の昌幸が真田家の家督を継ぐこととなります。 幼いころから、信玄の近くに仕えて現在で言うところの伝令将校のよう... -
天正壬午の乱
真田主要合戦本能寺の変で織田信長が横死したことにより、旧武田領は、上杉・北条・徳川の草刈り場と化し、混乱します。 そんな中、真田昌幸は各国のバランスを上手く利用しつつ、謀略の限りをつくして窮地を乗り切り、独立大名としての基盤を築いていくのでした。 【織田信長の急死後の動き、激動の天正10年】 天正10年(1582年)3月11日の武田家... -
小田原征伐~真田・名胡桃城が発端に~
真田主要合戦【小田原征伐までの流れ】 小田原征伐(おだわらせいばつ)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が惣無事令違反を名目に起こした征討。天皇は後北条氏討伐の勅書を発してはいませんでしたが、当時、太閤の立場にあった秀吉は、天皇の施策遂行者という名分を備えて戦いに臨みます。 1580年(天正8年)、北条氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居...
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