真田家の物語。つまり、真田昌幸とそのふたりの息子、信幸(信之)と信繁(幸村)を語るとき、およそ必須項目と言えるエピソードが、この「犬伏の別れ」と言えるでしょう。
では、実際の犬伏の別れとは、どのようなものだったのでしょうか?
犬伏の別れ
徳川家康のもとに馳せ参じるべく進軍する、真田昌幸、信幸、信繁の親子三人。宇都宮へ向かう途上、下野犬伏で1泊することとなります。
その夜、昌幸のもとに石田三成の使者が到着。「内府ちがいの条々と三奉行の連署状が届けられました。(長束正家、増田長盛、前田玄以)
これを見た昌幸は信幸と信繁を呼び、人払いをおこなったうえで会談を行い、話し合いの結果、昌幸・信繁(石田方)と信幸(徳川方)に袂を別つことになった。
これが世にいう「犬伏の別れ」のエピソード。犬伏の別れとは、果たして史実なのでしょうか。
河原綱家家記とその他の資料
昌幸が厳重な人払いのうえ話し合っていることを心配した重臣・河原綱家(昌幸の従兄弟にあたる一門衆)が様子を見に行ったところ、昌幸が烈火のごとく怒り、綱家に下駄を投げつけた、と言います。運悪くそれが綱家の顔面に命中。前歯にあたってしまい、彼は生涯前歯が欠けたままでした。「河原綱家家記」
この他にも、犬伏での逸話は様々な資料に記載があると言います。そして、どの資料にも大まかに違った点はなく、会談で席に着いた昌幸は石田方に着く決意を明かし、信繁は即座にそれに同意。しかし、信幸は家康の動員(会津征伐)に基づいてここまで出陣してきたので、今さらそれを裏切るような真似はどうなのか?と逆に昌幸を諌めたとのこと。一方の昌幸、信幸の意見を尊重しつつも、天下が再び乱れようとしているときに、それを利用し、家を隆盛させ大望を成し遂げるのが武将の生き様であると主張。しかし、信幸が意見を譲ることもなく、別々の道をゆくことになったと言います。
その他、
●信幸は稲・小松姫(徳川重臣・本多忠勝の息女)を、信繁は春・竹林院(豊臣重臣・大谷吉継の息女)をそれぞれ正室としていること。
●昌幸の旧来からの徳川に対する恨み
などがあります。
この後、すぐに敵味方に別れての行動をとる父子
さすがに激動の戦国時代を生き抜いた父子と言うべきでしょうか。それぞれ敵味方に別れての行動が決まった直後から、両者ともに互いが攻撃を仕掛けられるのを恐れて素早く行動を開始したと言います。
昌幸・信繁父子は上田への道を急ぎ、信幸は全軍に厳戒態勢をとらせました。また、「慶長記略抄」という資料には、昌幸・信繁と別れた信幸は、宇都宮に到着して徳川にこの件を報じた後、急ぎふたりの後を追い、鉄砲で攻撃したとあるそうです。
ともあれ、この事実を耳に入れた家康は、昌幸に同調しなかった信幸の忠節をおおいに褒めるところとなりました。その後、昌幸の行動を敵対心からであると認めた家康は、昌幸の所領を信幸に与えることを約束します。
こうして信幸は、当時4歳の嫡男・信政を、重臣・矢沢頼幸に同伴させたうえで、江戸へ人質として送るのでした。
稲・小松姫の沼田城の逸話。
犬伏の別れのエピソードとして有名なものに、上野・沼田城に到着した昌幸・信繁父子が、ひそかにこの城を乗っ取ってしまおうと算段したところ、留守を守っていた稲・小松姫が断固としてふたりの入城を拒否。もし、無理にでも入城するというのなら、如何に舅と言えども一戦も辞さぬ覚悟。という気合を見せます。さすがの昌幸もこれには閉口し、ただ孫の顔を見たいだけだと伝えると、子供を連れた稲・小松姫が城外に出て孫の顔を見せ、ふたりを沼田から去らせたというもの。
しかし、何故このとき、稲・小松姫は沼田城に居合わせたのでしょうか?
犬伏の別れの真実
関ヶ原合戦前、石田方はまず人質の確保という軍事行動を起こしています。実際にその中では細川忠興室の玉・ガラシャ爆死事件などの悲劇もおこっている他、昌幸・信繁父子は大谷吉継にそれぞれ人質を確保されており、無事であるから安心してほしいとの書状が昌幸に送られています。
昌幸・信繁父子の人質は在阪していたにも関わらず、信幸の方はと言えば小松姫及び子息らを事前に沼田に返していたことから、情勢を考えたうえで、予め徳川方につくということを決定していたと考えられます。
いまだ結論のでるものではありませんが、昌幸・信繁父子、そして信幸の石田・徳川どちらにつくのかの結論は、「犬伏の別れ」以前にはそれぞれ決まっていたと考えるのが自然なのかも知れません。
しかし、犬伏という場所での3人の最期の会談があったであろう。ということもまた事実。昌幸はなんとか信幸を説得するつもりだったのか?はたまたその逆なのか?
新説や、大胆で興味深い歴史解釈が楽しい真田丸。犬伏の別れはどのように描かれるのでしょうか。
「歯が欠ける」予定の河原綱家にも注目です。