玉・細川ガラシャ

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大河・「真田丸」橋本マナミさんが“正妻”役で出演決定

明智光秀の娘で、後に大名・細川忠興の妻となった玉(細川ガラシャ)。カトリック信者としても知られる、たいへん有名な戦国時代の女性にひとりではないでしょうか?

そんな玉を演じる橋本さん。大河ドラマは『武蔵 MUSASHI』(2003年)以来の出演です。

「愛人キャラ」が売りの彼女を、まさかの「正室」で大抜擢。

真田丸のプロデューサー家冨未央さんは、そのインタビューで、「寒い夜に、ふと当たりたくなる暖炉。それが、三谷(幸喜)さんの描く玉だと感じています。玉は、心を神にささげて生きた強い女性。凛とした外見の中に秘められる橋本さんの包容力は、男女問わず見る人を癒やし、温めるはずです」と語っています。

さて、その、玉・細川ガラシャとはどんな人物だったのでしょうか?

 

天正10年。玉の運命を替える「本能寺の変」

永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子の間に三女(※異説あり)として越前で生まれた、玉・細川ガラシャ。
天正6年(1578年)、15歳の時に織田信長のすすめで、細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興に嫁いだと言われています。玉・細川ガラシャはたいへんな美女と評判であり、また忠興とは仲のよい夫婦であったと伝えられています。

しかし天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討つと自らも滅び、珠は「逆臣の娘」となってしまいます。

夫の忠興はその後、天正12年(1584年)まで彼女を丹後国に隔離・幽閉。この間に彼女を支えたのが、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリアらの侍女達でした。

 

やがて、改宗する玉

天正12年(1584年)3月、秀吉が台頭すると、その取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視しました。それまでは出家した細川藤孝(幽斎)とともに禅宗を信仰していたと言われています。

天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると、彼女は彼岸の時期である事を利用して侍女らに囲まれ、身を隠して教会に赴きます。教会ではそのとき、復活祭の説教を行っているところであり、玉は日本人の修道士にいろいろな質問をしました。修道士は後に、「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性とは話したことがない。」と述べています。

玉はその場で洗礼を受ける事を望みましたが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が推察できたので、洗礼は見合わされることになりました。しかし、細川邸では、侍女の帰りが遅いことから玉が外出したことに気づき、玉を連れ帰ります。こうして教会では、彼女が細川家の奥方であることを知ったのでした。

再び外出できる見込みのなくなった玉は、洗礼を受けないまま侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励みます。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、玉は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸で密かに洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を受けました。※バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げていません。

九州から帰ってきた忠興。5人の側室を持つと言い出すなど、玉に対して辛く接するようになってしまいます。玉は「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けますが、キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は思いとどまるよう説得しました。

 

細川屋敷、爆破事件

慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣。忠興は屋敷を離れる際に、「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従ってまず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じたと言います。

そして石田三成が、大坂玉造の細川屋敷にいた玉を人質に取ろうとしますが、玉はこれを拒絶。その翌日、三成が実力行使に出て屋敷を囲むと、玉は屋敷内の侍女・婦人を外へ出し、家臣に自らを介錯させ果てました。その後、家臣は玉の遺体が残らないように、屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃。この時、辞世の句として著名な、「散りぬべき 時知りてこそ世の中の、花も花なれ、人も人なれ」を残しています。
忠興は玉の死を悲しみ、慶長6年(1601年)、キリスト教会葬による葬儀をひらき自らも参列しました。

この時、玉が死を選んだことが他家へ与えた影響は非常に大きかったと思われ、結果的に石田三成の側でなく、徳川方に恭順するものを増やしてしまう原因となりました。

 

彼女の魂は海を越え、愛されることになります。

キリストの教えを知るまで、気位高く怒りやすかったという玉。しかし、その教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く、たいへん穏やかになったと言われています。

玉がキリスト教の洗礼を受け改宗するまでの様子は、当時日本に滞在中の宣教師たちによって本国へもたらされ、「日本の教会史」の中には、玉(細川ガラシャ)についての記述が残されました。これに基づいて書かれた脚本は、戯曲「強き女・・・またの名を、丹後王国の女王グラツィア」となり、作中でガラシャは、幾多の苦難に耐えながらも、最後まで信仰を貫いた誉れ高い女性として描かれています。

こうして彼女の魂は海を越え、ヨーロッパにまでに伝わり、愛されることになりました。

 

数奇な運命を辿る彼女の息子たち。信繁と、共に戦った興秋。

玉・細川ガラシャの産んだ子供には、於長(おちょう:前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら:稲葉一通室)がいます。

玉が亡くなった際、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、玉の子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もおり、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れて助かっています。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じますが、忠隆はこれに反発。忠興は忠隆を廃嫡するばかりか、勘当しています。(※諸説ありますが、前田と細川の姻戚関係を好ましく思わない徳川家への忠興の配慮と考えられています。)廃嫡後に長岡 休無(ながおか きゅうむ)と名を変えた忠隆は、京都公家衆との能や茶の湯などの文化活動に励み、やがてサロンの長老的存在となっていきます。そして西園寺左大臣の岳父という立場となった忠隆。後には、朝廷と細川藩を結ぶ役目を担いました。

また次男の興秋は、弟の忠利が自分を差し置いて家督を相続したことに不満を抱いて細川家を出奔。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣氏に与して大坂城に入城しています。道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦いなどで奮戦しました。豊臣家の敗北後、家康から赦免の話があったと言われますが忠興はそれを断り、興秋は切腹して自害しました。

関ケ原や大坂の陣で一族が敵味方に分かれて戦った例は、何も真田家だけに限ったことではなく、このようなものを始めとして数多く見られます。それぞれの思惑が絡み合い、非常に混沌した状況にあったこの時代。やはり歴史は、一方的な視点で見ると本質を見誤るということなのかも知れません。

 

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