真田昌幸・信繁の父子が高野山に向かった際、これに随行したいわれる家臣は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、青柳清庵ほか16名。徳川から随行する家臣の人には制限を設けられていたとも伝わっています。
これら随行した家臣には、上田の信之(信幸)から引き続き知行が与えられ、その生活を維持しました。
家族とともに九度山へ
高野山では、信濃国小県郡地域の人々の宿坊に指定されている、蓮華定院(れんげじょういん)にいったん厄介になった一行。この縁で、蓮華定院は真田の菩提寺として保護されることになります。(※現在も宿坊として、一般に利用が可能です。)そしてその後、この院の仲介もあり、麓(ふもと)の九度山に屋敷を構えることになりました。
この蓮華定院に残る覚書によると、九度山において昌幸と信繁は別々に屋敷を持ち、随行した家臣もそれぞれに別宅を持ったと伝えられています。(※通常の流人に比べれば良い待遇)
上田に正室・薫(山手殿)を残した昌幸(※現地で側室を持ったとも言われています)に対して、信繁の方は正室・春(竹林院)の他、側室・高梨内記・娘(名称不詳・きり)、側室・たか(隆性院)も随伴。信繁の九度山での配流生活は意外にも大所帯なものになりました。(※高野山は女人禁制。なので高野山蟄居ではなく九度山に屋敷を構えるということになったと思われます。)
生活の基盤は信之からの仕送りやその他の援助に頼る・・
知行地の一切を没収された昌幸と信繁。昌幸には高野山周辺で多額の借金をしていたという記録も残っており、当然ながら生活は苦しいものであったと考えられます。その収入源の主だったところは国元の信之(信幸)からの仕送りに頼るほかありませんでしたし、他にも、信之、信繁の弟・昌親もその知行地からの定額を仕送りにあてていたり、監視役の浅野氏、蓮華定院からの援助などもあったようです。そんな生活でしたから、国元の家臣たちからの贈答品なども、彼らの楽しみのひとつとなっていたと思われます。
昌幸の死
慶長8年(1603年、※昌幸死去の8年前)3月、昌幸自身が兄・信綱の菩提寺、信綱寺に宛てた手紙には、「今年の夏には家康が関東に下るらしい、そうなれば本多正信が私のことを赦すよう話してくれるでしょう。上手くいけば下山となりますから、その際はゆっくりお話ししたいものです。」と記されていたといいます。九度山配流当初、おそからず赦免されると踏んでいた昌幸ですが、現実は逆。いっこうにその気配はなく時間だけが虚しく過ぎていくのでした。
やがて九度山での生活が10年近くなると、昌幸の気力は衰えていくばかりとなりました。慶長16年に昌幸から信之(信幸)に宛てた書状には、「万事不自由であることをお察しください。私などは大くたびれの有様です。」などと記されるだけでなく、この文書の筆跡が信繁のものと推定されており、この頃には筆を持つこともままらないほど病弱していたと考えられています。
そして、慶長16年(1611年)6月4日、赦免かなうことなく九度山で逝去。享年65才。
この報を伝え聞いた信之は、父を弔うべく葬儀の可否を本多正信に相談したと伝えられますが、「あなたのためにも赦免されるまでは自重するように。」と、逆に諭されてしまい、信之の想いは遂げらずじまいとなりました。
昌幸が死去すると九度山に随行した家臣の多くが故郷・上田に帰ることになります。その後も引き続き信繁に仕えたのは高梨内記、青柳清庵のみとなりました。(※国元に帰った家臣たちは信之が手厚く迎え本領安堵したとも。)
しかしこの頃、信繁の正室・春(竹林院)の他、側室・高梨内記・娘(名称不詳・きり)、側室・たか(隆性院)に相次いで子供が誕生。信繁の家族は大所帯となっていくのでした。
続きはこちら「信繁の九度山ライフ②~密かに鍛錬を重ねた日日~」