板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)

真田丸に登場する北条方の武将・板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)。ドラマでは、山西惇(やまにしあつし)さん演じる戦国武将。史実の流れを考えれば、前半には滅亡する予定の北条家。たくさんの家臣を擁するその家中において、板部岡江雪斎がたびたび劇中に登場する理由など踏まえての投稿記事になります。

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初め真言宗の僧、そしてその優秀さから北条家にスカウトされた外交官

執権北条氏(北条時行)の子孫とされる田中泰行の子で、北条氏政の命により、板部岡の名跡を継いだとされています。北条家では、右筆・評定衆(事務官僚のような仕事全般)として活躍するだけでなく、寺社奉行として寺社の管理などにも携わったと考えられています。

 

北条3代そしてその滅亡後は、秀吉、徳川にも仕えた

事務官僚としての役目のほか、外交僧としても活躍した板部岡江雪斎。もちろん他の大名と接触する機会も、家中ではひときわ多い存在でした。

天正元年(1573年)、武田信玄が死去したには、氏政の命で病気見舞いの使者として甲斐へ赴きました。(※この時、武田家では信玄の死去をおおやけにはしておらず、信玄の弟・信廉が影武者として出迎えていますが、これを江雪斎は見抜けなかったとの説も。)また、北条氏と武田氏との同盟が決裂、北条氏は勢いに乗る織田信長と同盟を結びますが、この際の使者としても江雪斎が活躍しています。

激動の天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で死去。信濃をめぐって徳川家康と北条氏直が対立すると、その和睦交渉に奔走して、家康の娘・督姫を氏直の正室に迎えることで和睦を取りまとめています。以後は太田氏房の補佐として岩槻城に入りました。

天正17年(1589年)、北条氏と豊臣秀吉との間で対立が深まると、北条氏規(氏政の弟)と共に関係修復に尽力しました。このとき、秀吉は江雪斎の才能を気に入り、自ら茶を点てて接待したとまで言われています。

小田原征伐による北条氏の没落後は秀吉の御伽衆(※このエピソードは後述)となり、姓を岡野と改めました。(岡野江雪斎)

そして、秀吉の死後は長男・房恒が仕えていた徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは家康に随従。小早川秀秋の説得にあたっています。

慶長14年(1609年)6月3日に伏見で死去。

 

秀吉に仕える際のエピソード

小田原開城の際、北条氏直の夫人を守っていたと言われる江雪斎。無事に夫人を家康に引き渡すと、その後生け捕りにされたと言います。

秀吉の面前に引き出され、戦の責を問われた江雪斎は「戦争を起こして主家が滅んだことは自分が思慮してもどうなるものでもない。むしろ滅ぶものだったのであろう。しかし、日本全国の大軍を迎えて一戦を交えたときうことは、北条家の面目にとってはこれ以上のものはない。もはや思い残すこともないので遠慮せず首を刎ねよ。」と潔く述べたと言われます。

これに対して秀吉は、「はりつけの刑にでもしようかと思ったが、主人を少しも批判しないことは誠にあっぱれである。一命は助けるゆえに今後は豊臣に仕えよ。」と江雪斎を許し、その御伽衆に加えたとのこと。

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真田丸の前半、知略を持って北条・徳川・上杉などを手玉にとり、真田の存亡をかけて戦う昌幸・信幸・信繁の親子。各大大名の中でも、必然的に、参謀・外交官役の人物の登場が多くなっています。真田家なら真田信尹。徳川家は本多正信・石川数正。上杉家なら直江兼続。といったところです。そして北条家はこの板部岡江雪斎。その半生を考えると、ドラマの後半にも登場が考えられる人物です。

大河・真田丸のクライマックスには「大坂の陣」と言う、主家滅亡後に他・大名に仕えたり、また牢人となっていたりしたものが再起や最期を欠けて戦います。なにもそれは信繁に限ったことではなく、この時代に生きた武将たち全般に言えることではないでしょうか。

脇役の人生にまで注視すると、存外楽しめるところが大河ドラマの醍醐味かと思うのです。

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