宇喜多秀家

元ジャニーズの高橋和也さん演じる、宇喜多秀家。同じく岡本健一さん演じる、毛利勝永も配役が発表されており、中年世代には懐かしい「男闘呼組」の共演が地味に実現しています。(岡本健一さんは現在もジャニーズ事務所・所属)。真田丸での宇喜多秀家は、どんな些細なこともおろそかにしない、熱血漢。「大坂城の松岡修造」となるらしく、今からその活躍が楽しみです。

こちらの投稿記事では、本来の宇喜多秀家の人物像に迫っていきたいと思います。

 

幼少時に大大名に出世。

秀家の父・宇喜多直家は策謀にたいへん長けた人物とも言われ、主君を追い落とすことで下克上を成し遂げた戦国大名。場合によっては乱世の梟雄と言われる斎藤道三や松永久秀とも並び称されることがあります。

天正9年(1581年)にその直家が病死すると、翌年には織田信長(※早い時期から直家は信長に従属しています)の計らいにより、幼少ながら本領を安堵されて宇喜多家の家督を継ぎました。こうして、中国遠征を進めていた秀吉の遠征軍として宇喜多家も組み込まれ、備中高松城攻めなどに参陣しています。(※秀家は幼少であったため家臣が代理・補佐しました

しかし、翌年の天正10年6月2日、本能寺の変が起こって信長が死去(※秀家11歳)。急遽、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、大国・毛利家の監視役という意図のもと、宇喜多家は所領安堵。秀家は、計らずも備中東部から美作・備前を領有する大大名にのし上がることになります。

 

秀家の秀は、秀吉の「秀」

秀吉の寵愛を受けた秀家はその猶子となり、元服した際には秀吉から「秀」の字を与えられ、秀家と名乗りました。天正14年(1586年)には秀吉の養女(前田利家の娘)・豪姫を正室とし、秀吉の一門衆として、格別の扱いを受けることになります。翌年には、豊臣姓(本姓)だけでなく、羽柴氏(名字)を与えられています。(※信繁は豊臣姓のみ

 

数々の武勲。そして五大老への任官

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退

天正13年(1585年)、3月に紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐へ上陸し、後に阿波戦線に参加

天正14年(1586年)、九州征伐に参陣

天正18年(1590年)、小田原征伐にももちろん参陣

上記のように、各地を転戦して豊臣政権を武功の面でも支えています。

そして、文禄元年(1592年)からの文禄の役には大将として出陣。李氏朝鮮の都漢城に入って京畿道の平定に当たりました。翌年、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを打ち破り、6月には晋州城攻略を果たすなどの武功を挙げています。こうして秀家は、従三位中納言にまで昇叙しました。

続く、慶長2年(1597年)からの慶長の役では監軍として渡海。左軍を率いて南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなどの活躍を見せます。慶長3年(1598年)、日本に帰国すると、今度は五大老の一人に任じられました。

 

秀吉の死去、三成襲撃事件と関ケ原

秀家が五大老に任じられたこの年の8月、秀吉が死去します。

この後、豊臣秀頼の後見役だった前田利家も病死。豊臣家中では、加藤清正・福島正則らと、石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化します。これに乗じた五大老の徳川家康が豊臣家における影響力を強めていくことになりました。そして、加禱清正をはじめとする7将(福島正則、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政、以上7人の他、蜂須賀家政、藤堂高虎が加わる場合もあります)により、石田三成襲撃事件が勃発。この際、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出しました。

慶長5年(1600年)、家康が会津征伐のため出兵している機を見計らって、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎだし、打倒家康のために挙兵。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となります。

伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて伊勢・長島城を攻撃した後、美濃・大垣城に入城し西軍本隊と合流しました。関ヶ原の戦いにおいても西軍主力(最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げています。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅しました。

 

関ヶ原後の人生

関ヶ原の後、宇喜多家は改易。秀家は伊吹山中に逃げ込み、矢野五右衛門という人物に助けらて約40日間匿われ、その後は変装して薩摩の島津義弘を頼って落ち延びました。慶長8年(1603年)、島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡されたと言います。
この際、島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の助命懇願により、流人として八丈島へ配流という処遇になりました。

八丈島では苗字を浮田と改め、妻の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて50年を過ごしたと言います。

八丈島での生活はたいへん不自由なものであったと言われ、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」などの逸話が伝わっています。

しかし、明暦元年(1655年)11月20日、享年84歳で死去。このとき、既に江戸幕府は第4代将軍・徳川家綱の治世となっており、秀家は不遇ながらも大往生を遂げました。

 

大坂の陣で信繁とともに牢人「五人衆」に数えられる明石全登(たけのり・ジュスト)は、宇喜多家の筆頭家老。没落した宇喜多の再興を考えて入城したのかも知れません。

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