信繁の九度山ライフ②~密かに鍛錬を重ねた日日~

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屋敷の火災~災難までふりかかる信繁一家~

九度山における十数年におよぶ信繁の配流生活。1611年(慶長16年)に父・昌幸が亡くなったあとも、生活費の工面にさえ汲々とするさまは、この時期の信繁自信の筆による手紙などの一次資料からも伺えます。

家臣に宛てた中からわかる事実として、信繁とその家族が住む屋敷が火事にあっており、急ぎ助けを求める旨を書きしたためたものや、またその支援に対する御礼を述べたものなどが現存しています。(※九度山に随伴し、昌幸の死後には信之のもとに帰った池田長門守への書状など

この際、信繁のためにかつての家臣たちが借り入れた金額は金四十両一分。四方八方に手を尽くして工面してくれた彼らに対して、借金を重ねる信繁は「これ以上の気遣いはいらない」と書き送っています。(※この時期、兄・信之からの仕送りももちろん続行中です。金子二分、銀十四匁)

 

焼酎を河原綱家にお願いの書状~かつての家臣に無心~

ある年、河原綱家に宛てた書状の中で、壺ふたつを一緒に送った信繁。その中に焼酎を詰め丁寧に蓋をして送り返すように依頼したと言います。この書状の中には、もし今なければ、ある時でかまわないから是非送って欲しいという念の入れようでした。大坂城下の真田屋敷に詰めていたこともあってか、綱家には隙がったら九度山にも顔を出して欲しいと伝えています。

この他にも兄・信之への無心や、国元の家臣への歳暮の礼状、あるいは普段お世話になっている人物への詫び状などが現存しており、このころの信繁の生活の苦しさを彷彿させています。

 

信繁の生活は不自由なだけであったのか?~書状はブラフ~

しかしこれら書状のように、この十数年の間に信繁は、ただひたすらに枯れはてていくのを待つだけだったのでしょうか?これ以前の半生においても、歴史上目立った記録もない信繁が、大坂の陣では「日本一(ひのもといち)」と言われる大活躍をやってのけたわけで、これには書状からは伺いしれない、信繁の九度山生活の実情があるのです。

信繁は九度山での日常、地域の人々や老僧と深くかかわり、狩りをしたり、寺で囲碁・双六に興じたり、屋敷では夜更けまで兵書を読みふける生活。父・昌幸の生前には、兵書の問答も欠かさず、さらに知識を深めていったと言います。

つまり、何かに向けての武士としての準備を怠らず、さらには近隣の郷士などを集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練でさえ行っていたと伝わるのです。(※これら記述は「真武内伝追加」より)。こうしてみると、家臣たちにあてた書状は、監視役や幕府を油断させるための演出だった可能性もあるのではないでしょうか。

この頃、秀頼を主とする豊臣家と天下統一を成した徳川幕府の間で、ふたたび世の中の情勢にも変化が起こってきており、全国の情報を収集していたに違いない信繁は、そのことも肌で感じていたことでしょう。

やがてその秀頼の招きに応じて、九度山を脱出。いよいよ信繁が大坂城へ入城します。

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