矢沢頼綱(よりつな)

矢沢頼綱
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昌幸の叔父さん。苗字は違えど、真田一族です。

真田頼昌の3男とされ、真田幸隆の弟にあたる人物で、若い頃出家し、京都鞍馬の僧となりますが、程なく郷里に戻って還俗(げんぞく:僧を辞めて一般人に戻ること)したとの逸話も。大河・真田丸では、綾田俊樹さんが渋く演じます。

さて、真田郷に隣接する地域の矢沢郷(現在の上田市殿城町矢沢)をもともと支配していた地侍の矢沢家は、真田家とは敵対関係にありました。しかし、頼綱がその養子になる事で敵対関係は解消されたと言います。

天文10年(1541年)5月の海野平の戦いで幸隆とともに海野氏に与して敗北すると、諏訪氏の斡旋を受け、武田信虎に従います。(※この頃の頼綱のポジションは真田家臣ではなく、独立した小領主)
天文20年(1551年)には、兄の真田幸隆の援助を受けて、荒砥城を攻撃、村上氏一族の山田国政と吾妻清綱を攻め滅ぼします。

幸隆や後を継いだ甥の信綱に従い、永禄6年(1563年)9月の上野岩櫃城攻略で功を立てました。
以後は真田家の吾妻郡平定で先頭に立って働き、一時期は岩櫃城代をも勤めます。

そして真田家は昌幸の時代へ

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで信綱が亡くなると、真田家を継いだ甥の真田昌幸に臣従します。
昌幸は甲府に詰める事が多かったため、頼綱は吾妻郡の経営や沼田領侵攻の指揮を執ることを任されます。天正8年(1580年)5月には沼田城攻略に成功し、その功績により沼田城代に任命されました。

天正10年(1582年)3月に織田信長の武田征伐で武田家が滅亡すると、独立勢力となった真田家の家臣団が成長していくなか、頼綱はその重臣となっていきます。

天正11年(1583年)6月17日には沼田領として200貫文を与えられている。頼綱は後北条氏との最前線で働き、天正13年(1585年)3月14日付で沼田城在番の功労として海野領で1000貫文を宛がわれ、同年の上田合戦では徳川家康に呼応した北条氏直の叔父・氏邦の沼田侵攻を受けますが撃退しました。

天正13年(1585年)の書状から嫡子・矢沢頼康(三十郎)と連署しているようで、これ以後は頼綱の活動がほとんど確認されていないため、代替わりが行なわれていたと見られています。

以後、矢沢家は真田家臣団の中で最高位にあり、子孫も明治時代に至るまで藩の筆頭家老格を維持し、知行高も2000石を数え、同心40人を預かる大身として存続しました。

慶長2年(1597年)5月7日に死去。享年80歳でした。

頼綱の戦いぶりと活躍についての投稿記事はこちら→ 戦(いくさ)巧者の矢沢頼綱

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その他、真田家臣団のメンバーはこちら

出典:記事の一部をウィキペディアより抜粋しています。

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