真田昌幸~戦国一の知将~

真田昌幸
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信玄から「我が目」の如しと賛辞を受けた昌幸

甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。
信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。
織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の後北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。

上記出典:ウィキペディア

 

戦国の皮肉、二人の兄の死は昌幸の転機となります

昌幸には、10歳上の信綱4歳上の昌輝という兄がおり(二人ともに武田二十四将に数えられた名将です。)また、同年生まれの信尹(弟)に、さらに高勝、道鏡という二人の弟がいます。
幼いころより、武田家に人質として送られましたが、聡明なことを見抜いた信玄から奥近習として抜擢されました。
元服後の初陣は永禄4年(1561年)9月の最も激しかったといわれる第4次の川中島の戦いになります。
まさに「大いくさ」を最初から経験したことになり、その際、本陣を守りながらも決して信玄のそばを離れなかったと伝えられています。

才能や主君からの信頼があっても、三男の昌幸に真田家を継ぐ機会はありません。
そこで信玄は昌幸を自分の生母の実家「武藤氏」の養子にして継がせ「武藤嘉兵衛」を名乗らせます。
これは外様に過ぎない真田が、武田一族に迎えられていることを示しており、よほどの好待遇であったと言えます。

※武藤嘉平にかんするエピソードは大河「真田丸」第4回に登場

昌幸は信玄を第二の父とも慕い、また信玄は昌幸のことを曽根昌世とともに「我が両目の如し」と称したと言います。

 

大河・真田丸について

真田家のストーリー(大河・真田丸においても)は、あくまで主人公は真田信繁(幸村)ですが、もうひとつには、昌幸・信幸(信之)も濃すぎるかたちで織り交ぜた真田家二代のお話しであるとも思います。

理由としては、昌幸の活躍の影に隠れた信繁は、史実上にほとんどその資料が残っていないことが挙げられ、謎の多い真田家の中でも、さらに謎だらけの男。となってしまうからです。

専門家などからもよく言われることですが、この「謎多き」部分が、後年、江戸時代や大正・明治にかけての、真田幸村像(この場合は信繁ではなく幸村と言ったほうが良いでしょう)やその人気を作りだしました。

真田丸前半は、まさに昌幸の活躍が中心になるでしょう、それを横からしっかりと見つめる信幸・信繁の兄弟。

前半の見せ場とも言える「犬伏の別れの後、対局の方向へ進む二人にはその後どんなストーリー展開が待っているのでしょうか?

こちらもあわせてご覧ください。

信幸と信繁~その対極にある人生①~

もうひとりの安房守~北条氏邦と真田昌幸~

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