約265年に渡る徳川政権を後にを築くことになる徳川家康。その配下には並みいる戦国武将が揃っていたわけですが、大河ドラマなどではもちろん時間的(予算も?)な制約もあり、ストーリーに絡む人物しか登場しません。真田丸での家康家臣といえば、本多正信、本多忠勝が頻出しますが、正信なら家康の参謀としての立場や昌幸との関係性を重視したもの。また、忠勝は信幸の義理の父としての重要性などが挙げられます。では、当初より名前の見られる石川数正。彼はどのような人物だったのでしょうか?
戦場で武功を挙げ、渉外担当としても功績のあった家康の懐刀
天文2年(1533年)、石川康正の子として三河国で誕生とした数正。その家系は河内源氏の流れを汲む、名家であったと考えられます。徳川(当時・松平)家のもとでは、まだ家康が今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えており、言わば生え抜きの重臣でした。
永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死。家康が独立すると、数正が今川氏真と交渉して、今川氏の人質だった家康の嫡男・信康と正室・築山殿を取り戻しています。
また、永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍しました。
永禄5年(1562年)には数正は織田信長と交渉を行なって、その後の家康の運命を決定づける清洲同盟の成立に貢献したと考えられます。(こういった渉外担当としての数正の役割が、個人としての人脈の形成を促します。)
永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると父・康正は家康を裏切りますが、数正は家康方についています。
※三河一向一揆は徳川家臣団の約半数が本願寺教団の門徒に与して一揆をおこした事件。本多正信なども一揆側についており、伊賀越えなどと並んで家康最大のピンチと言われます。
この一揆の後、家康から家老を任じられると、酒井忠次、石川家成(数正の叔父)らに次いで重用されます。信康が元服するとその後見人に任命されるなど家中での存在感を増していきました。
また、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、
天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、主要な合戦にはすべて出陣。数々の武功を挙げています。
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が変死。その後に秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、数正が秀吉との和睦を提言したとの説があります。
そして、徳川家を出奔。豊臣家臣となります。
天正13年(1585年)11月13日、突如として家康の下から出奔し、秀吉の下へとついてしまう数正。重臣であった数正は徳川の軍事的機密を知り尽くしていたと思われ、三河以来の軍制を武田流に改めるなど、この出奔は家康に大きなダメージを与えます。(※武田遺臣を多く家康が取り込んでいました。)
そして、文禄2年(1593年)に享年61歳で死去するまで、秀吉の家臣として仕え、信濃松本に10万石を与えられて大名に出世しています。
徳川政権下の石川家
家督は長男の康長が継ぎ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍について所領を安堵されています。(※徳川秀忠軍に従って、第2次上田合戦に参戦。真田昌幸・信繁親子と戦うも大敗。)
しかし、慶長18年(1613年)、大久保長安事件に連座して(※長安とは縁戚関係)、領地隠匿の咎を受けて石川家は改易となってしまうのでした。
未だ解明されない出奔の謎
明智光秀の裏切りと並んで世紀のミステリーとされているのが、この数正の出奔です。説の中には、
・次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
・対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると疑って、徳川家中における立場が悪化したためという説。
・天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。(※信康の後見人を務めていた。)
・信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったためという説。
・父・康正が家康と敵対して失脚、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正が傍流に押しやられたためという説。
・家康、暗黙の了解のうちにあえて秀吉の家臣となり、家康の外交を秀吉の側から助ける役目を引き受けたという説(山岡荘八『徳川家康』※小説です。)
他にも説があるのですが、不思議なのはこのどれをとっても腑に落ちるという点でしょうか。徳川家中では随一の人脈があった人物なので様々な可能性が考えられますし、その理由もひとつやふたつではなかったのかも知れません。ともかく、数正が「家康を裏切った数少ない武将」になってしまったことは疑いようがありません。
数正の長男・康長と次男・康勝は、大坂の陣で真田信繁ともに徳川方と戦った!
ちなみにですが、改易後の数正の嫡男・康長、次男・康勝は大坂の陣に豊臣方として参加しています。特に次男の康勝は、真田丸の攻防戦において「やらかし」てしまい、これが転じて豊臣方を大勝利に導く一因になったとも。このエピソード、大河ドラマ・真田丸では描かれるでしょうか?今から楽しみですね。