平野長泰(ながやす)

七本槍の中では最も出世しなかった人物

尾張の出身で、若い時から秀吉に仕えた平野長泰。
平野氏は鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫ともいい、事実であれば家格は良かったという家柄です。
長泰にその名を上げるチャンスが訪れたのは、本能寺の変の後、対立が激しくなった秀吉と柴田勝家が決戦をおこなった天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで、加藤清正、福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして賤ヶ岳の七本槍と称えられました。

 

賤ヶ岳の七本槍とは?

・福島正則
・加藤清正
・加藤嘉明
・脇坂安治
・糟屋武則
・片桐且元
そして、平野長泰
以上の七人をさして呼びます。

この呼び名を生み出した、賤ヶ岳の戦いは、近江の伊香郡(現:長浜)の賤ヶ岳付近で行われた秀吉と織田家最古参の重臣・柴田勝家との戦いを言います。
この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって、信長の築き上げた権力と体制の正統な継承者(簒奪者)となることに成功します。
この時、秀吉が活躍した7名を特に「賤ヶ岳の七本槍」と呼び過大に喧伝したことは、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が、自分の子飼いの家臣の功名と力をつけさせることで、政権の安定化を図りたかったとの意図があります。
※実際に秀吉から感状を得て、数千石の禄を得た人物は他にもおり、石田三成や大谷吉継など、秀吉配下の多数の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されています。

 

長泰のその後

秀吉の天下統一の戦いの中、歴戦に参加した長泰も戦功を重ねて5千石の知行を与えられています。
慶長2年(1597年)、従五位下遠江守に叙任され、豊臣姓が下賜されるにいたりました。
秀吉もその働きを評価をしていたわけですが、拝領する石高が爆発的に増えるというようなことはなく、賤ヶ岳の七本槍・その他の6名のように大名への出世は遂に実現しません。
理由は、性格が荒々しく秀吉のいうことを聞かなかったとか、石田三成と仲が悪かったためとも伝えられます。

 

関ケ原の合戦では

関ヶ原の合戦では東軍に付き、旗本として徳川秀忠について進軍しています。
つまり、第二次上田合戦で真田昌幸・信繁親子にさんざんな目にあい、関ケ原には間に合わず…
残念にも目立った手柄を立てること叶わず、最後の出世のチャンスを逃してしまうことになってしまいます。
この時期、賤ヶ岳七本槍の加藤清正、福島正則が大大名になっていったのとは対象的な結果に終わってしまいました。

 

長泰以後の平野家

大坂の陣では豊臣秀頼に合流するつもりであった長泰。ところが、その考えが徳川家康にばれてしまい、江戸留守居役を命じられて留め置かれてしまいます。
しかし、このことに対して処罰がくだるということもなく、江戸政権下において平野家は旗本として後世も続くことになりました。
こちらも加藤清正、福島正則らが大大名になりながら、その後に改易されてしまったのと対象的と言えるのではないでしょうか。

秀吉が豊臣を名乗り始めたころ、世の中が安定してくると、長泰のような武人としての性格の強い人たちには窮屈であったかも知れません。(長泰自身、大名になりたかったかどうかも微妙です。)
三成と仲が悪かったという逸話。また、大坂の陣に豊臣方として参加しようとした逸話。どちらも想像できてしまうお話。
後日談として、後世、明治になってからの三年間のみ、平野家は田原本藩となり、直後に廃藩置県が行われるまで大名家となっています。

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