豊臣家を滅亡へと導いた張本人
浅井氏の家臣の娘であったといわれ、茶々(淀殿)の乳母を務めた大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)。夫は丹後国の地侍・大野定長(一説には尾張出身や近江出身など)。
この時代の他の女性と同じく前半生は明らかではありませんが、茶々からの信任が厚かったことで、大坂の陣において大坂方の中心人物の一人として大蔵卿局も権勢を誇るようになります。
子には、大野治長・大野治房・大野治胤・大野治純の4人の息子。
末子・治純以外の息子たちは豊臣秀頼に側近として仕え、特に長男の治長は、豊臣家滅亡にいたる大坂の陣において、最期まで母・大蔵卿局とともに淀殿・秀頼の側にあって共に最期を遂げました。
後世、茶々と治長とともに、豊臣家を滅亡へと導いた張本人のようなイメージが定着。
※もっとも、晩年の徳川家康の老獪(ろうかい)さに徹底的に振り回された一人と言えるでしょう。
方広寺鐘銘事件
彼女が歴史に名を残したエピソードのひとつに、方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)での顛末(てんまつ)があります。
※方広寺は、豊臣秀吉が奈良の大仏にならって京都東山の地に大仏を建立しようとして造営した寺院。
いったんは完成しましたが、慶長元年(1596)の大地震によって大仏殿は大仏もろとも大破。秀吉没後は秀頼がその遺志を継いで復興を命じて慶長17年(1612)に大仏が完成。
慶長19年(1614)には大仏殿も再建ていました。
この時、方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた銘文(めいぶん)の中にある「国家安康」「君臣豊楽」の八文字が、徳川家康を呪う不吉の文字であるということで問題に。
※徳川の天下を確立させるため豊臣家を臣従させたい家康も、いきなり軍事攻撃をしかけたり、圧力をかけるわけにはいかないず、無理やりにでも大義名分を作るための言いがかりでした。
この問題の弁明の使者として大坂から派遣されたのが片桐且元。(※元は浅井家臣。賤ヶ岳七本槍の一人)秀頼の傅役も務めた人物です。
駿府へ到着した且元ですが、約一か月駿府におよぶ滞在にも家康には会ってもらえず、側近の本多正純と金地院崇伝の対応を受けるのみで、結局、駿府を後にすることになります。
この時、且元は交渉の中で徳川方の強硬な姿勢を感じ取り、豊臣と徳川の間の和平を保つことの困難さを認識したと言います。
一方、茶々は且元とは別に(※且元だけでは心許ないと思ったのか、且元に不審を抱いていたのか)大蔵卿局を使者に家康へと遣わします。
結果的にはこの二重の使者が、徳川方に付けいらせる隙をつくる結果となります。
且元とは正反対に、大蔵卿局に対しては家康自身が対面。丁重にこれをもてなします。
鐘銘問題についても、とがめ立てするようなことはなかったといい、逆に家康は茶々と秀頼の健康を気遣って、秀頼に嫁いだ孫の千姫に懐妊の様子はないかと上機嫌で尋ねてたとも言います。
二者の徳川に対する考えは両極端なもので、且元の考えは、秀頼が大坂城を明け渡すか、淀殿を人質に江戸へ差し出すか、秀頼が江戸に参勤するか、この三つのいずれかを受け入れること。
しかし、この答えを聞いた大蔵卿局は、自身が家康から受けた丁寧な対応とのあまりの落差に驚き、且元に対する不審を募らせることになるのでした。
大坂の陣。豊臣家とともに迎えた、大蔵卿局とその息子たちの最期
茶々は、当然のごとく且元への不信感を募らせ、ついには且元を大坂城で誅殺しようと謀るにいたってしまいます。
※効果てきめんで徳川方の策略にまんまとはめられ、最後の忠臣ともいうべき片桐且元を豊臣家は失うことになりました。
その後、大坂の陣にて、茶々・秀頼母子の自害とともに大蔵卿局・治長の母子もこれに殉じ、最期まで付き従いました。
大坂の陣以降も唯一生き残ったと思われる大蔵卿局の息子に、幼少期に豊臣氏から徳川氏への人質となった末子の大野治純がいます。
徳川に仕えてその家臣となっており、大坂夏の陣が始まる前日には、家康の命を受けて、負傷していた兄・治長を見舞っています。
その際に家康から「真田信繁・長宗我部盛親らが内通している」という偽書を見せられ、その内容を兄・治長に伝えた結果、士気を高めるために予定されていた豊臣方の秀頼の出馬が急遽取り止めに。
秀頼は大坂城で籠城し続ける事になり、その最期を迎えました。
美丈夫であり、家康をしてもカリスマ性を感じさせたという豊臣秀頼。大坂の陣、一度でも彼が出馬するようなことがあれば歴史はもっと違ったものになっていたかも知れません。
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