北条氏政②~氏政を再評価しよう~

関東の雄・後北条氏の第4代当主、北条氏政。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたります。真田丸での「二度汁エピソードの氏政像・新機軸」がネット上でも話題となる、歴史上で不当な評価を受けてきた戦国武将の筆頭格。せっかくなので、これを機に氏政を再評価しましょう。

 

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次男として生まれ、やがて嫡子当主へ

その出自に謎が多く「戦国三大梟雄」に数えられたり、また並外れた名君でもあった、レジェンドの曽祖父・北条早雲が基礎を築いた北条家。祖父・北条氏綱が飛躍させると、父・氏康の代には「関東の覇者」としての地位を確立させます。氏政はその次男。兄・新九郎が夭折したために世子となり、天文23年(1554年)に父が武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させると、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えました。(この時、氏政12歳)
永禄2年(1559年)に名将とうたわれた父・氏康が隠居。家督を譲られると北条家の第4代当主になります(この時、氏政20代前半)が、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続いています。

家督相続後、氏政が最初に行なった仕事が、北条家所領役帳の作成(※これは代替わりの際に北条家で慣例的におこなわれる検地)です。これは、民意を重視する北条家ならではのものでしたが、氏政の代に最盛期を迎えており、彼の存在は所領をはじめ、関東一円の治世の安定に大きく関係したものと考えられます。

 

氏政の実績

・上杉謙信・武田信玄・佐竹義重という猛将と凌ぎを削り、後北条氏の版図を最大にした。
・謙信の関東平定を挫折させた。(生涯に2度しか負けなかった謙信。唯一、敗北の相手は北条家のみです。)
・織田信長旗下の大将・滝川一益を関東から追放。

また、兄弟の仲がたいへん良かったとも言われ、家政の混乱や勢力の減退などが一切見られないのもその特徴のひとつ。

ちなみに、

氏政→政治
氏照→軍事
氏邦→殖産
氏規→外交
景虎→人質

と、兄弟の役割分担も明確でした。

 

暗君ネタ元は「北条記」「甲陽軍鑑」

秀吉への臣従を拒絶し、その結果滅ぼされたという結果から、「情勢に疎い」「井の中の蛙」「己を過信した」という烙印を後世で押されてしまった氏政。とにかくこの「北条記」では、5代の当主の中で唯一「君」も付けられず語られています。

 

こういった後世の軍記物の有名な逸話

・ご飯に味噌汁をかける「汁かけご飯」が好物だったとされ、その際に味噌汁の量をよく見誤って汁を足していたという。これを見た氏康は「物事の器量も計れんのか」と落胆した。

・行軍中に、自領の麦畑に差し掛かった際に「ちょうど昼時だから、あの麦を刈って麦飯にしよう」と言ったという逸話。当然、麦も米も収穫から天日干し、脱穀…と食べるまでに手間がかかるため、こうした常識を知らない氏政を表した話とされます。

・「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、どうやら無事であった」とひどすぎる内容。

どれもこれも、本当にそこまでひどかったの?という内容で、後世の軍記物が元ネタになっていることからも、北条家の不名誉一切の責任を氏政に着せてやろうという意図を感じます・・・まぁ、敗者に厳しいというのが世の中の常ということですね。

北条家の治世が続いていれば、名君として語られたであろう北条氏政です。

 

関連記事、氏政、徹底交戦の理由~北条氏政③~もご覧下さい。

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