上杉景勝①

上杉景勝

真田丸では、遠藤憲一さん演じる上杉景勝。寡黙で義に厚い性格だが、ついつい安請け合いしてしまうのを家臣・兼続に咎められる・・・昌幸やその他の大名とは、違う雰囲気ながらも個性豊かに描かれています。実際の景勝はどんな人物だったのか、2回に渡る記事投稿でご紹介したいと思います。

 

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生粋の無口な男、景勝

上杉景勝は、上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれ、叔父・上杉謙信の養子となり上杉氏の家督を継ぎました。(※生母は謙信の実姉・仙桃院)
後に豊臣政権の五大老の一人となり、江戸期には出羽米沢藩初代藩主となりました。上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目にあたります。

景勝の人物像として、感情を表に出すことがほとんどなかったといわれています。
有名なエピソードとしては「ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり部下に指図したりといった自分の物まねをしていたのを目にし、そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼした。」
なんと、これが生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったと言うのです。よほど寡黙な人だったということをあらわす逸話ですね。
また、景勝が秀吉に謁見する際、あまり饒舌には語らない景勝の横で、重臣・直江兼続が主君の代弁をするさまを見て、秀吉は兼続の才を見抜いて気に入りました。
※「真田丸」での景勝と兼続の登場シーンで、下敷きになっている両者の人物像と言えます。

 

養子として謙信に学ぶ、しかし急死する謙信

初陣は永禄9年(1566年)、謙信の関東出兵と言われています。それ以降、景勝は上田衆を率いて、謙信政権下で重要な役割を担っていくこととなります。
天正3年(1575年)には、名を上杉景勝に改め、謙信から弾正少弼の位を譲られました。総勢375人の軍役を負担し、謙信への尊称であった「御実城様」と並んで「御中城様」として上杉一門衆筆頭に数えられるまでに成長します。

天正6年(1578年)3月13日、謙信が死去するとその後目争いとなる御館(みかた)の乱が上杉景虎との間で勃発。(※景虎は北条家から謙信が養子に迎えた戦国武将。北条氏政の弟にあたります。)
原因は、謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、過去、越後での何代にも渡る権力争いなど、複雑な事情が背後に絡んでいると言われています。
同年3月24日、いち早く春日山城本丸と金蔵を占拠した景勝側は有利に事を進めて、春日山城下の御館に立て籠もった景虎と争います。

しかし、6月に甲相同盟に基づいた武田勝頼が調停のため出兵すると一転して景勝は窮地に陥りました。
そこで景勝は、東上野(こうずけ)の割譲と黄金譲渡を条件として勝頼と和睦。なんとかこの戦局をくつがえすことに成功します。
この際、勝頼の異母妹・菊姫と婚約して甲越同盟を結び、武田との関係を強化しました。

翌年の天正7年(1579年)、窮地に追い込まれていった景虎は自害。そしてその翌年、景勝は名実ともに上杉家の当主となります。
その戦後処理では、自分に味方した豪族への恩賞は抑え、自身の出自にあたる上田長尾系の家臣を大身に取り立て、謙信と共に戦った歴戦の国人衆は自分の見方までも粛清し、上田長尾が完全支配する体制を築いていくこととなります。

 

絶対絶命のピンチを迎える景勝の上杉家・・・

御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった新発田重家が織田信長と通じて造反。柴田勝家率いる4万の織田軍に越中にまで侵攻されます。
翌年には越中への出陣を約束していた武田氏の滅亡によってその後ろ盾を失い、天正10年(1582年)織田軍が越中を完全に制圧すると景勝は窮地に立たされます。

この年の5月、景勝は玉砕覚悟で信長との決戦を決意。(この時27歳)
「自分は良い時代に産まれた。六十余州を相手に越後一国をもって戦いを挑んで対峙し、滅亡することは死後の思い出である」と語ったと言います。

しかし、運命の6月2日、本能寺の変が起こると、信長が自害。織田軍の北征は頓挫して、景勝は九死に一生を得ました。
※織田氏の侵攻に加え、御館の乱が長期化(前述の新発田重家による長年にわたる反乱など)したため、領内に対する統治力は著しく低下。謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は、景勝の時代(初期)には衰退することになります。

 

秀吉に仕えることで安定期へ、体制下の一翼へと成長していきます。

信長の死後、天正壬午の乱が起きると景勝は北信濃に侵攻。北条氏直と争いますが、北信濃4郡の割譲を条件に最終的には講和にいたります。
その後は台頭する秀吉と通じて、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いなどで秀吉に味方し、同年には真田昌幸を一時的に従属下に置いています。(※このエピソードは、真田丸・第10話「妙手」

天正14年(1586年)6月、上洛して秀吉と会見し臣従を誓うと、越中と上野(こうずけ:真田氏の大名としての独立)の領有を放棄。換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可されます。この際、景勝は右近衛少将に任じられました。
天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたって抗争状態にあった新発田重家を討ち、再び越後統一を果たします。
天正17年(1589年)、佐渡を平定。約90万石の支配領域を確定させます。
天正18年(1590年)には、秀吉の小田原征伐に出兵、前田利家や真田昌幸らとともに、上野・武蔵の北条方諸城を攻略しました。

この後、景勝は五大老の一人に任命され、豊臣政権下において上杉家の安定期へと導いていきます。

 

あの前田慶次も惚れ込んだ、上杉景勝

豊臣時代の景勝のエピソードには下記のようなものもあります。

秀吉が京都・伏見城に各大名を招いて宴が催された際、この中に前田慶次郎が紛れ込んでいました。
宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面(秀吉を揶揄)をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊り出し、ついには列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙に至ります。
大名達は宴の余興なので、とがめる者も怒り出す者もいませんでした。
しかし、景勝の前に来た慶次郎は、唯一膝に乗ることを避けます。

後に、その理由について尋ねられた慶次郎は、「景勝の前に出ると威風凛然(いふうりんぜん)としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったと言い、「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」と慶次郎なりの敬意を示した行動だったともいわれています。
当時、引く手数多だった前田慶次郎はその他の大名の誘いはすべて断り、景勝に臣従することを決めています。

 

上杉謙信という伝説的な先代を持ち、その憧れや現実とのギャップに苦しんだ部分があったのではないかと思わされる景勝の人生。この後、秀吉の死後は徳川に傾いていく世情の中で、徳川に反発もある上杉家は、江戸期にかけて度重なる領地の縮小など苦しい目にあうこととなります。

それらの詳しい記事は、次回、上杉景勝②にて投稿いたします。

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