木曾義昌(木曽義昌)

真田丸では、第1回から武田家を裏切った武将としてその名が登場する木曾義昌(よしまさ)。織田信長死後に起きる信濃の混乱でも、その領国の位置関係などから、ある種のポイントとなる人物です。

源義仲の嫡流と伝わる名族・木曽氏。最初は対抗するも、後に信玄の親族衆となる

義昌は、天文9年(1540年)、木曾義康の嫡子として誕生しました。当初は小笠原氏や村上氏らと共に、武田信玄の信濃侵攻に対抗。しかし、弘治元年(1555年)には遂に降伏し、信玄の3女・真理姫を正室に迎えることで、親族衆として武田家より、領国の木曽谷を安堵されています。(※木曽谷が隣接する美濃・飛騨との国境地帯という要所であるため、木曽氏を仲間に迎えることで自国の防波堤とする信玄の意図があったと思われます。)

 

義昌の裏切りが、武田滅亡のきっかけとなる

信玄の死後、凋落しはじめた武田家の行く末に不安を抱くと、義兄にあたる武田勝頼の新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせる義昌。
天正10年(1582年)には、織田信長と盟約を結んで勝頼に対し反旗を翻し、これが武田家滅亡のきっかけとなります。

勝頼は討伐軍を木曽谷に向けて派遣しますが、義昌は織田信忠の援軍を得て鳥居峠にてこれを撃破。しかし、武田軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑されるという悲劇が起きました。

 

本能寺の変以後、徐々に凋落していく木曾家

その後、織田家からは安曇・筑摩二郡(安筑10万石)を新たに加増され、深志城(後の松本城)に城代を置いて松本地方経営の拠点としますが、3ヶ月後に本能寺の変が勃発。信濃国内の混乱を利用し、義昌は美濃へと逃げる森長可の命を狙いますが、逆にに木曽福島城に押し入られ、子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されるという失態を犯し、むしろ長可の撤退を助ける羽目に。

そして、深志の旧領主・小笠原長時の弟である洞雪斎が、上杉景勝の後援を受けて進軍すると、義昌は深志城を奪われ木曽へ撤退することになるのでした。

 

移封の憂き目にあう

徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の乱では、初めは氏直に従いますが、寝返って家康に通じると再び木曽谷安堵の約定を得ることに成功。しかし、天正12年(1584年)家康と秀吉の対立をうけて義昌は家康との盟約を反故にすると、今度は秀吉に恭順するに至りました。(※この件について、家康が小笠原長時の子・貞慶の深志城復帰を認めたからとも言われ、家康は義昌の妻籠城を攻めますが、これには義昌が勝利。これらの出来事は後に家康の木曾氏に対する遺恨となります。)

天正18年(1590年)秀吉に臣従した家康の関東移封に伴い、秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(千葉県旭市網戸)に1万石を与えられて木曽谷を退きます。
交通の要衝にあり優れた木材を産出する木曽谷を取り上げると同時に、家康を懐柔するために体よく使われた義昌。この移封により、精神的にも経済的にも逼迫した文禄4年(1595年)、失意のまま他界したと言われています。

 

真田丸でのエピソード

真田昌幸の母・恭雲院(真田丸では「とり」「ばば様」)を人質としていた木曾義昌。こちらも事実なのですが、天正壬午の乱の際、昌幸が家康に臣従すると恭雲院は、木曽氏から徳川へ引き取られる予定であったと言われます。しかし、このころには高齢であったため恭雲院の体調が優れなくくなっていたことから、徳川に人質としてむかうのは延期されました。

そして、昌幸が徳川を見限りやがて上田合戦へと発展。昌幸が徳川家康に対して強気に出られたのは、母・恭雲院を人質に取られず済んだからだと考えられます。ちなみに、恭雲院は木曽氏から真田に帰ったとの記録もあり、その最期は人質としてではなく往生されています。

こちらのエピソードは真田丸・第7回「奪回」に登場

 

その他の逸話

義昌の次男、義成は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じて大坂城に入城。徳川家康と戦った言われています。

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