新発田 重家(しばた しげいえ)

足掛け7年にも渡って景勝に反旗を翻した戦国武将

天文16年(1547年)生まれ。謙信時代からの上杉家臣で、川中島の戦いや関東出兵などにも参加した経験を持ちます。当初は五十公野(いじみの)家を継いで五十公野 治長(はるなが)と名乗っていましたが、天正8年(1580年)、兄の死により新発田家に戻って家督を相続、新発田重家(しばたしげいえ)となりました。

 

上杉家後継者争いでは景勝を支持・活躍

謙信の死後に起こった御館の乱では安田顕元の誘いに応じて景勝を支持。景虎方についた同族の加地秀綱を降すと、乱に介入した蘆名盛氏・伊達輝宗の兵を退けるなど大いに活躍したと言われています。

重家は、その活躍に相応する恩賞を期待していましたが、ほとんどは景勝子飼いの上田衆の手に渡り、亡くなった兄・長敦の功績が軽んじられたばかりでなく、重家に対する恩賞も家督相続保障のみに終わりました。むろん、納得のいかない重家は、不満を募らせるばかりか景勝に対して不振を抱くようになります。(※重家を景勝陣営に引き入れた顕元は、重家に謝罪する意味合いで自刃し果てたとも。)

 

いよいよ上杉家に反逆、景勝を散々な目に遭わせます

天正9年(1581年)、重家が景勝に対して不満を募らせている状況を見て、蘆名盛隆と伊達輝宗は上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行っています。こうして6月16日、重家は一門衆や景虎派を味方に引き入れ新潟津を奪取、新潟城を築城し独立します。また、西側から上杉領攻略を進めていた柴田勝家はこの機に乗じて輝宗との連携を緊密にし、ますます上杉への攻勢を強めていくことになるのでした。

天正10年(1582年)2月、景勝は重家に対する最初の攻勢を発動しますが、重家はなんなくこれを撃退。4月に入って雪解けが本格化すると、景勝は再び重家攻めに着手しますが、織田勢(柴田勝家、森長可、滝川一益)の侵攻に対処するため重家対策は家臣に任せることになります。

6月2日、本能寺の変が起きると織田軍が撤退したため、とりあえず西方と南方からの脅威は取り除かれますが、景勝自身は織田の旧領をめぐって、休む間もなく信濃で北条氏直と対陣していたので、この時にも重家との本格的な戦はありませんでした。また景勝は、7月に北条と和睦すると重家攻めに力を入れたものの、今度は兵糧不足に陥り撤兵しています。

天正11年(1583年)に入っても状況は変わらず、景勝は4月と8月に出陣しますが、重家の頑強な抵抗は相変わらずで、8月の出陣の際、上杉勢は豪雨と湿地帯のせいで大混乱に陥り、隙を突いた新発田勢に散々に敗れ、危うく景勝自身も討ち取られそうになります(放生橋の戦い)。この猛反撃で、重家の勢力範囲は一時的にせよ広がる結果となりました。

天正12年(1584年)8月、景勝は重家の水原城奪還のため出陣。これには成功し、新発田方は水原城を放棄して退却します。(八幡表の戦い)。
しかし、上杉方は直江兼続の陣が重家の攻勢を受けて崩壊し大損害を蒙っため、それ以上兵を進めることが出来なくなり、水原城もほどなくして新発田方の手に戻ってしまいます。そのため新発田方の意気は揚がり、一時は佐々成政と共に景勝の挟撃を目論むほどまでになってしまうのでした。

 

後ろ盾の蘆名盛隆・伊達輝宗が死去、重家の最期が訪れます。

しかし、10月6日に蘆名盛隆が家臣に殺害されたことで、重家を取り巻く状況が暗転し始めます。
天正13年(1585年)5月には、伊達家の家督を継いだ伊達政宗が蘆名と開戦し(関柴合戦)、秋には上杉に新発田への道を貸すなど、輝宗による越後介入路線を完全に放棄してしまいます。

天正14年(1586年)、上洛して正式に羽柴秀吉に臣従すると、景勝は新発田攻めに全力を傾けはじめ、すぐに決着をつくことはありませんでしたが、新発田方では兵糧の欠乏や配下の寝返りなどもあり、戦力が目に見える形で衰えていきます。

そして、10月25日、景勝勢に厳重に包囲された新発田城内で重家は最期の宴を催し、それが終わると城を出て甲冑を脱ぎ捨て真一文字に腹を掻き切って自刃。壮絶な最期を遂げます。

重家の反乱が足掛け7年にも及んだことは、はからずも上杉氏の力の衰退を象徴しているようです。
しかし、重家が地の利を生かして巧みに防戦したこと、また当時の上杉が全方向を敵に囲まれており、重家の反乱鎮圧だけに全力を注げる状況ではなかったこと、重家が伊達輝宗・蘆名盛隆の本格的な援護を受けていたことなど、様々な要因が、乱をこれほどまでに長引かせたと言えるでしょう。

 

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