北条氏直

伝説の武将、北条早雲、武田信玄の血を引いた戦国のサラブレッド

後北条氏の第5代当主、北条氏直。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏最大の版図を築き上げた戦国武将。

武田氏遺領争いとなった徳川との天正壬午の乱では、滝川一益敗退後、北条に帰参していた真田昌幸や木曾義昌が離反。家康方の依田信蕃のゲリラ活動に補給路を脅かされるなど苦戦しました。
別働隊の北条氏忠・北条氏勝が黒駒合戦で徳川方の鳥居元忠に敗退すると戦線は膠着。
その後、織田信雄・信孝兄弟の調停もあり、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘・督姫が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立しました。

 

秀吉の台頭、惣無事令違反、名胡桃城奪取事件の勃発

家康と同盟を結んだ後、氏直は下野・常陸方面に侵攻して勢力を拡大しますが、秀吉の台頭で関東惣無事令が発令されると、氏直は秀吉との戦いを意識して軍備増強に務めることになります。
一方では家康の仲介を受け、叔父の北条氏規を上洛させて秀吉との交渉に臨むなど、秀吉の実力については認識していたものと考えられています。

しかし天正17年(1589年)、秀吉の沼田裁定による沼田城受取後、猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発。これが惣無事令違反であるとして、秀吉との関係が事実上破綻してしまいます。
このことについて氏直は、名胡桃城は既に真田に返還していること、この件について真田方の名胡桃城主と思われる中山の書付を進上するので真理を究明してほしいという弁明をするとともに、家康に対して秀吉への執り成しを依頼しています。
しかし家康は、秀吉から小田原征伐に関する軍議に出席するよう求められたため、既に上洛。家康への依頼が実を結ぶことはありませんでした。

 

そして小田原征伐へ

天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐が開始。
氏直はこれに対して領国内に動員令をかけるなどし、小田原城での籠城戦を決意します。籠城は4月から3カ月に及び、大軍によって小田原城は完全包囲。さらに水軍による封鎖。支城の陥落などに加え、重臣が秀吉に内応しようするなどして次第に追い込まれ、氏直は7月1日、和議をを決意。5日には秀吉方に赴いて、氏直自身が切腹することによる将兵の助命を請い、秀吉に降伏しました。

氏直の申出について感じ入り神妙とした秀吉は、家康の婿ということもあり氏直を助命。一方で、父・氏政、氏照及び宿老の大道寺政繁、松田憲秀は切腹を命じられています。
11日に氏政・氏照が切腹。
12日に氏直は紀伊国高野山へ
21日に一門の重臣などを伴って小田原を出立し、8月12日には高野山に到着しました。その後、謹慎生活を送り「見性斎」と称したと言います。

 

実は幕末まで存在した北条家

天正19年(1591年)1月。氏直は赦免活動を開始。2月には秀吉から家康に赦免が通知されました。
8月19日に秀吉と対面すると、正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ大名として復活。

氏直の死後、叔父にあたる北条氏規の長男、北条氏盛(氏直の養子)が河内狭山藩の初代藩主となりました。(この氏盛は、関ヶ原の戦いでは東軍の西尾吉次隊に属し戦っています。)

こうして、氏直の死後も北条宗家は幕末まで存続しました。

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