真田丸年表・前半

真田丸前半、第1回以前から第14回までを年表にしました。

時間軸に沿って、ドラマをお楽しみください。

 

月日 出来事 武将の年齢 真田丸
1547
天文16
 
真田昌幸(真田幸隆 三男)誕生
 
 
武田信玄27才
上杉謙信18才
織田信長14才
豊臣秀吉11才
北条氏政10才
徳川家康 6才
武田勝頼 2才
ストーリー
以前の歴史です
 
真田信尹(真田幸隆 四男)誕生
 
 
 
 
 
 
1550
天文19
7月2日
真田幸隆(昌幸の父)、武田信玄(この時・晴信)から砥石城陥落達成後の恩賞を約束されます
 
※真田家はもともと武田氏とは反目する立場にありましたが、幸隆の時代に信玄に臣従することで勢力を伸ばしました。
真田幸隆38才  
7月
武田信玄、小笠原長時を破り松本平を制圧
 
小笠原氏の討伐に成功した武田信玄、次のターゲットは村上氏
9月
砥石合戦が開戦
 
 
10月1日
信玄、村上氏に敗れ退却
 
※「信玄の戸石崩れ」などとも呼ばれる合戦
1551
天文20
5月26日
真田幸隆、独力で村上氏の戸石城攻略に成功
 
※幸隆は武田氏から上田などを与えられ、武田家での存在感を増していきます。
真田昌幸 5才
武田信玄31才
上杉謙信22才
織田信長18才
豊臣秀吉15才
北条氏政14才
徳川家康10才
武田勝頼 6才
 
1553
天文22
4月初め
武田軍が松本経由で村上義清を攻めます。
 
 
幸隆41才
信綱17才
昌輝11才
昌幸 7才
信尹 7才
4月9日
村上義清、武田信玄に敗れます
 
義清は上杉謙信(この時・長尾景虎)の元へ逃れる。※謙信の信濃侵攻の理由に。
この後、武田信玄と上杉謙信による川中島の戦いが断続的に起こる原因となります。
4月22日
「第一次川中島合戦」
 
 
7月
~8月上旬
武田信玄、東信地方を攻略。
 
 
 
 小県(ちいさがた)郡が武田領となります。
 
8月10日
幸隆は、三男昌幸と四男信尹を、武田氏へ人質に出します。
 
昌幸と信尹はこの後、甲府にて暮らします。
昌幸は武田の名跡・武藤姓を与えられ武藤喜兵衛を名乗りました。
9月
「第一次川中島合戦」終結
 
終結後も国境付近で断続的な小競り合いは続きます。
1554
天文23
 
武田信玄(この当時はまだ晴信)信州一円を平定(ほぼ)
 
 
真田幸隆42才
真田昌幸8才
武田信玄34才
上杉謙信25才
織田信長21才
豊臣秀吉18才
北条氏政17才
徳川家康13才
武田勝頼 9才
 
 
真田氏、本領である真田郷へ復帰します。
 
 
12月
武田信玄、娘を北条氏康の嫡子である北条氏政に嫁がせます
 
※これにより武田と北条は同盟関係へ。
1559
永禄2
 
上杉謙信(この時・長尾景虎)、将軍足利義輝から関東管領になることを許されます。
 
謙信が京にのぼり留守の間に、武田氏は越後を攻めます。
上杉謙信30才  
真田家は、関東管領になった謙信に祝いの太刀を送りました。
 
※武田家臣でありながら、上杉氏とも地理的に微妙な立場であった海野・真田・祢津・室賀などの小県(ちいさがた)の諸将は、それぞれの立場を守るために祝いの太刀を謙信へ送っています。
武田晴信、武田信玄に改名
 
 
1560
永禄3
5月19日
「桶狭間の戦い」
 
今川義元が織田信長との合戦で戦死。
今川義元42才
織田信長27才
豊臣秀吉24才
徳川家康19才
 
 
海野一族の全てが武田氏や真田氏と合流
 
※もともと海野家の支流であった真田家が幸隆のころより力をつけていくこととなりました。
1561
永禄4
3月
長尾景虎(後の上杉謙信)、北条氏康の小田原城を攻撃。
その後、上杉氏の家督を相続、名前を上杉に改名(この時は政虎)。
 
 
真田昌幸15才
武田信玄41才
上杉謙信32才
武田勝頼16才
 
9月21日
「第四次川中島合戦」
 
川中島合戦の中で最大の激戦。
幸隆も嫡子である信綱とともに参戦。
幸隆の三男である武藤喜兵衛(真田昌幸)も小姓として信玄と共に参戦しています。
信玄の弟・信繁や軍師の山本勘助などが戦死。
※この武田信繁(典厩)にちなんで、真田信繁と名づけられたと言われています。
11月
武田氏は上野(こうづけ)国を攻略
 
武田氏は北関東への進出を始めます。
1562永禄5  
北条氏直 誕生
 
 
   
1563
永禄6
9月
武田方による岩櫃城攻めが開始
 
真田幸隆は岩櫃城を攻撃。
※武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)も戦いに参戦。
幸隆51才
昌幸17才
 
10月
真田幸隆、岩櫃城攻略
この勝利で、幸隆は信玄に吾妻郡の守将を命ぜられることとなります。
 
 
1564
永禄7
 
幸隆、長野原に長期滞在、安定化を図ります。
 
 
幸隆52才
信綱28才
昌幸18才
 
3月
この頃、幸隆は隠居し「一徳斎」に改名。
 
家督を長男信綱に譲ります
 
 
8月
「第五次川中島合戦」
 
 
1566
永禄9
 
昌幸の長男、真田信幸が生まれる
 
 
幸隆54才
信綱30才
昌幸20才
信幸 1才生
 
8月
信玄が西上野最大の城である箕輪城を攻略
 
武田氏は関東西北部へ領土拡大
1567
永禄10
 
昌幸の二男、真田信繁(真田幸村)が生まれる
 
 
幸隆55才
信綱31才
昌輝25才
昌幸21才
信尹21才
信之 2才
信繁 1才生
 
3月
幸隆は上野国の白井城を攻略、上野国での領土を拡大
 
 
1568
永禄11
2月
武田氏、上杉氏の飯山城を攻撃
 
 
1569
永禄12
 
足利氏、織田討伐を武田氏にも依頼
 
足利氏は織田氏が天下統一を目指して動いていることに危機感を感じて、反織田の大名に向けて織田討伐を打診する密書を送り、武田氏にも密書が届く。
武田信玄49才
上杉謙信40才
織田信長36才
豊臣秀吉33才
北条氏政32才
徳川家康28才
 
10月6日
三増峠の戦い
 
武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)も出陣。
1570
元亀元
 
上杉輝虎は上杉謙信に改名
 
 
上杉謙信41才  
4月
信玄が高坂昌信に上野国のことは信綱に託すよう命令
 
 
10月
家康、信玄と断交し、謙信と和を結ぶ
 
 
 
信玄、西上作戦を開始する
 
足利義昭の要請に応えて京を目指し、西方への侵攻を始める。
1571
元亀2
10月
北条氏康が病死
 
 
幸隆59才
信綱35才
北条氏康57才
武田信玄51才
上杉謙信42才
織田信長38才
豊臣秀吉35才
北条氏政34才
徳川家康30才
武田勝頼26才
北条氏直10才
 
12月
北条氏は上杉氏と断交、再び武田氏と同名を結ぶ。
 
 
1572
元亀3
3月
幸隆が白井城(上州群馬郡)を攻略
 
信玄は幸隆に、箕輪城にて春日虎綱(高坂昌信)の指示を待つように命じる。
幸隆60才  
12月
「三方ヶ原合戦」
 
信玄が織田・徳川連合軍を敗る
昌幸は足軽大将として騎馬15騎、足軽30人を引き連れ参戦しています。
1573
元亀4
1月
信玄、家康を深追いせず、長篠城に
 
 
幸隆61才
信綱37才
昌幸27才
武田信玄53才
上杉謙信44才
織田信長40才
豊臣秀吉37才
北条氏政36才
徳川家康32才
 
3月
上杉方が白石城を攻略
 
幸隆は上野で上杉軍との攻防を続けます。
4月12日
信玄が病死
 
 
 
信玄の四男である勝頼が武田家を継ぎます
 
 
7月
織田信長が足利義昭を攻め、室町幕府が滅亡。
 
 
1574
天正2
5月19日
真田幸隆が病死
 
 
幸隆62才
信綱38才
昌輝32才
昌幸28才
信尹28才
信之 9才
信繁 8才
 
11月
信綱、四阿山(白山権現)別当職が安堵される
 
 
1575
天正3
 
この頃、武田家と北条家の関係が再び悪化し両氏は断交
 
 
信綱39才
昌輝33才
昌幸29才
信尹29才
信之10才
信繁 9才
 
 
「長篠合戦」
 
武田勝頼、織田・徳川連合軍に大敗。
この戦いで昌幸のふたりの兄・真田信綱と真田昌輝が戦死。
5月21日
昌幸が真田の家督を相続
 
兄ふたりが長篠合戦でが戦死したため、幸隆の三男である武藤喜兵衛が真田家を継ぎます。
※真田氏の家督を継いだ武藤喜兵衛は、真田昌幸に改名。
1576
天正4
1月
武田勝頼が岩櫃城の城代に海野幸光・輝幸を任命します。
 
この頃の吾妻郡統括は昌幸が担当しています。
昌幸30才
武田勝頼31才
 
9月
北条氏が上野国へ侵攻
 
 
1577
天正5
8月
勝頼は昌幸に対し、織田信長の行動が活発であることを伝える
 
 
昌幸31才
武田勝頼32才
織田信長44才
 
1578
天正6
2月13日
上杉謙信が病死
 
 
上杉謙信49才  
3月
「御館の乱」
 
謙信には実子はなく、養子の景勝と景虎、2人の間で相続争いが起こります。
1579
天正7
7月
景虎の自害で御館の乱が決着、景勝が上杉の家督を相続
 
武田勝頼は景勝を支援。
昌幸33才  
 
北条氏が上杉内乱に乗じて、上野国での領土拡大
 
北条氏が上杉氏内部の混乱に乗じて、上杉領であった利根郡のほぼ全域を手中にし、沼田城を攻略。
 
武田勝頼と上杉景勝は盟約を結ぶ
 
吾妻郡を領する昌幸にとっては朗報でした。
 
勝頼の妹が景勝へ嫁ぐ
 
武田勝頼は妹である菊姫を上杉景勝と結婚させた。
9月
北条氏政と徳川家康が同盟を結ぶ
 
織田徳川連合と北条氏が手を結んだことで、武田氏は東西からの脅威にさらされることになった。
1580
天正8
昌幸34才
信尹34才
信之15才
信繁14才
 
5月
真田氏が沼田城を攻略
 
真田昌幸配下の矢沢頼綱が上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略。
1581
天正9
2月
武田勝頼が新府城の築城を開始
 
昌幸が普請奉行を務めました。
昌幸35才
信尹35才
信之16才
信繁15才
武田勝頼36才
 
2月
沼田の旧領主が沼田奪還を決行したが、失敗
 
沼田の旧領主の一族・沼田平八郎景義が、沼田奪還のため進撃するも、昌幸が謀殺。
9月
新府城がほぼ完成
 
異例のスピードで築城。武田家の焦りが見て取れます。
11月
海野兄弟に謀反の疑いがあり、昌幸が討伐
 
真田氏の監督下で岩櫃城主を務めていた海野幸光と、沼田城主の海野輝幸は、謀反の疑いで昌幸に討伐される。
12月24日
武田氏、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府城に移動
 
 
1582
天正10
1月
武田方の木曽氏が織田方に寝返り、武田勝頼が挙兵
 
武田家の配下にあった木曽義昌が織田氏に寝返り、この動きが武田氏内部に広がることを恐れた勝頼は挙兵します。
昌幸36才
信尹36才
信之17才
信繁16才
織田信長49才
豊臣秀吉46才
北条氏政45才
徳川家康41才
武田勝頼37才没
北条氏直21才
真田丸・第1回「船出」

真田丸・第2回「決断」

真田丸・第3回「策略」

真田丸・第4回「挑戦」

真田丸・第5回「窮地

真田丸・第6回「迷走」

真田丸・第7回「迷走」

真田丸・第8回「調略」

真田丸・第9回「駆引」

2月
織田氏の信濃侵攻で、武田氏は織田氏への寝返りが続出
 
武田氏を裏切る者が続出。
勝頼の従兄にあたる穴山信君(梅雪)が徳川方に服属したことに衝撃を受けた勝頼は諏訪から新府城へ引き上げます。
この時、昌幸は勝頼を岩櫃城に迎え入れる準備をしていましたが、小山田氏や長坂氏の反対で叶いません。
3月
織田方侵攻の知らせで昌幸も挙兵
 
3月2日
織田信忠は高遠城を攻略
 
織田信忠は勝頼の弟である仁科盛信を破り、高遠城を攻略
3月3日
織田信忠、諏訪大社の上社を焼き、高島城を攻略
 
武田氏、会議にて新府城から出ることを選択
 
勝頼は会議で、小山田氏の意見に従い新府城から出て城に火を放ち、小山田信茂の居城である岩殿城へ向かいます。
昌幸は岩櫃上へ勝頼を迎えることを進言しますが実現せず、妻子を連れて岩櫃城へ向かうのでした。
3月7日
織田信忠が甲府まで侵攻
 
勝頼は窮地に。
3月11日
「天目山の戦い」武田勝頼自害、武田氏が滅亡
 
結局、小山田氏や長坂氏は勝頼を裏切る。武田勝頼とその嫡子である信勝は天目山にて自害。
武田家が滅亡。
武田氏の領地を織田軍が占領、昌幸は信長の配下に入ります。
3月12日
昌幸、北条氏から勧誘される
 
昌幸は武蔵国にある鉢形城の城主である北条氏邦から、北条家への服属を勧められる。
3月13日
信長、飯田で勝頼の首実検を行う
 
3月15日
昌幸ら小県郡の諸将は織田氏の家臣になる
 
真田、矢沢、祢津、室賀の各氏など武田氏の家臣は織田信忠へ服従を申し入れます。
3月20日
信長、諏訪で徳川家康と領地の分配などを話し合います。
 
信濃の多くの武将が信長の家臣になります。
 
4月
昌幸、信長に馬を上納
 
昌幸は織田信長の配下に入り、織田信長に馬を上納することで織田氏への服属を重ねて表しました。
 
沼田城は滝川一益に明け渡す
 
武田氏滅亡後、真田家は、沼田城を織田信長の重臣である滝川一益に明け渡していましたが、本能寺の変直後に奪還しています。
6月2日
「本能寺の変」
 
織田信長は本能寺にて明智光秀の謀反により自害。
信長の嫡子である信忠も二条城にて戦死。
6月6日
秀吉、光秀を討つために備中高松を出発。
 
信長の急逝を知った秀吉は、毛利方にばれない様に和睦に持ち込み、光秀を討つために畿内方面へ向かいます。
6月13日
「山崎の戦い」
 
羽柴秀吉が山崎にて明智光秀を討伐。
 
「天正壬午の乱」
 
信長が本能寺で戦死したことを受けて、信濃はいわば「草刈り場」と化します。北条・徳川・上杉という周辺の大大名がこぞって信州へ侵入。昌幸もこの動乱に巻き込まれ、生き残りに奔走することになります。
7月
昌幸、北条氏の家臣になる
 
9月
昌幸、徳川氏の家臣になる
 
10月19日
真田昌幸が祢津城を攻めるが陥落せず
 
真田昌幸が北条方である祢津昌綱を攻めますが、祢津氏の本拠地である祢津城は陥落せず。
10月29日
徳川と北条が和睦する
 
1583
天正11
1月
昌幸、小県郡内の反徳川勢力を鎮圧
 
徳川方に背いた依田窪地方の諸侍を、徳川方の真田昌幸・真田信尹(加津野信昌)らの間で丸子にて鎮圧。
昌幸37才
信尹37才
信之18才
信繁17才豊臣秀吉47才
北条氏政46才
徳川家康42才
北条氏直22才
 真田丸・第10回「妙手」
2月22日
岩尾城で激戦
 
徳川方である依田信蕃は岩尾城を攻めますが、信蕃は弟である依田信幸とともに戦死。
この戦いに昌幸も参加していたと思われます。
2月23日
岩尾城陥落
 
その後、徳川家康は信蕃の嫡子である康国に松平姓を与え、小諸城主に任命。
 
昌幸、虚空蔵山で上杉景勝の兵を破る
 
 
昌幸が上田城を築城開始。
1584
天正12
4月
「小牧・長久手の戦い」
 
徳川家康と羽柴秀吉が小牧・長久手の付近で合戦を起こした。
昌幸38才
信尹38才
信之19才
信繁18才
 真田丸・第11回「祝言」
7月
室賀正武を昌幸は上田城に招き寄せ謀殺
 
これにより、小県郡は真田氏により統一された。
 
昌幸、家康と断絶
 
徳川家康は北条氏と和を結ぶため、昌幸に沼田城を北条方へ明け渡すことを命じますが、昌幸はこれを拒絶。真田家は徳川氏と断絶します。
1585
天正13
7月
昌幸、二男信繁(幸村)を人質として上杉氏へ
 
昌幸は徳川氏と対決するにあたり、秀吉と友好的である上杉景勝の家臣になります。
昌幸は、上杉氏のもとへ二男である信繁(幸村、17才)を人質として送りました。
昌幸39才
信尹39才
信之20才
信繁19才豊臣秀吉49才
北条氏政48才
徳川家康44才
北条氏直24才
 真田丸・第12回「人質」

真田丸・第13回「決戦」

真田丸・第14回「大坂」

7月26日
上杉氏、配下に真田氏を援護するよう命令を発令
 
8月2日
「第一次上田合戦」
 
徳川家康は鳥居元忠や大久保忠世らを上田に出兵させ、第一次上田合戦が始まります。
8月2日
真田方大勝利
 
第一次上田合戦の中で最も激戦であった神川付近での戦いで徳川軍は大勢の死傷者を出し、真田昌幸が大勝利。
徳川方は丸子城も攻めますが、こちらも失敗。
8月3日
徳川方、八重原から尾野山城・丸子城を攻めますが、これにも失敗
 
8月20日
徳川方、信濃の諸将に出陣を命じる
 
徳川方は小笠原氏・下条氏・飯島氏・松岡氏といった信濃の家臣達に出陣を命令します。
徳川方、再び丸子城を攻めるも陥落せず
 
9月
北条氏が沼田城を攻撃
 
9月下旬
徳川方、佐久・諏訪方面の安定を図る
 
真田氏を攻める徳川方に援軍が到着
 
小諸城に駐留していた徳川方に、援軍である井伊氏5000人の部隊が到着。
9月29日
北条氏、沼田城攻撃で敗退
 
矢沢氏を中心とした真田氏が北条氏の攻撃から守りきります。
11月
徳川方の撤退により「第一次上田合戦」集結
 
徳川方の重臣である石川数正が徳川氏を出奔。秀吉方に寝返り、徳川の情報が筒抜けになる事態が発生。
※これを受けて徳川方は全軍撤退。
11月17日
昌幸、徳川方撤退に困惑
 
徳川方が遠江に撤退した直後、昌幸には徳川方の撤兵理由が分からず、困惑している事を上杉氏に伝えています。
11月19日
 秀吉は昌幸に、石川数正が徳川方から寝返ってきた状況と、家康を来年正月15日に討つことを伝えています。
 
 
昌幸、秀吉に家臣になることを誓う
 
 
上田城の完成。
 
上田城の完成時期ははっきりしていませんが、およそこの頃ではないかと推定されています。

 

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