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数正息子・石川康勝のボヤ騒ぎ ~真田丸での大失策・災い転じて福となす~
大坂の陣(豊臣方)【石川数正の嫡男・康長と次男・康勝、大坂城に入城】 徳川家康の元を出奔し、豊臣方 に寝返った石川数正。関ケ原の合戦の際には数正は死去していますが、彼の死後も石川家は嫡男・康長が家督を相続、信濃・松本8万石の大名家を存続させます (※康勝も1万5千石を継承)。その後、慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦、康長・康勝の兄弟は徳川... -
島左近・清興(さこん・きよおき)
豊臣家の人々【「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」】 三成に三顧の礼をもって迎えられ、破格の条件で側近として仕えたという島左近。具体的にはどのような戦国武将だったのか?石田三成に仕えるまでの半生は意外にも史料が残っておらずはっきりとしていません。 まずはその出身地が不明なだけでなく、破格の条件のものとなった左近... -
長束正家(なつかまさいえ・ながつかまさいえ)
真田丸を楽しむポイント【没落した自家を算術の能力で復興させた行政官】 豊臣政権下、五奉行の一人にも数えられた長束正家。父は水口盛里といわれ、元は水口城を居城とする水口を名乗った家系に生まれましたが、水口城が落城したため長束村に居住。正家は長束を名乗るようになります。 後に豪商となるような近江商人を数多く輩出することになる地域で育った正家。... -
木村重成(しげなり)
大坂の陣(豊臣方)【秀頼とは乳母兄弟の側近】 父は関白・豊臣秀次の側近だったと伝わる木村重茲(しげこれ)。文禄4年(1595年)の秀次切腹事件の後、重茲やその長男や娘も処刑されますが、その当時、まだ3歳であった重成と、秀頼の乳母を務めていた重成の母は難を逃れることが出来ました。後、重成は秀頼の小姓として召し出され、母・宮内卿局とともに、秀頼... -
バテレン追放令とサン・フェリペ号事件 ~二十六聖人殉教の悲劇~
真田丸を楽しむポイント【バテレン追放令】 秀吉は、もともと織田信長の政策を継承。キリスト教布教を容認する立場をとっていました。1586年(天正14年)3月には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを呼び引見、5月にはイエズス会に対して布教の許可証を発給しています。 しかしそんな秀吉が、バテレン追放令を出したのは同じ年の6月19日。同じくコエリョ... -
信繁の九度山ライフ① ~昌幸の死と大勢の子供たち~
その後の真田丸たち真田昌幸・信繁の父子が高野山に向かった際、これに随行したいわれる家臣は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、青柳清庵ほか16名。徳川から随行する家臣の人には制限を設けられていたとも伝わっています。 これら随行した家臣には、上田の信之(信幸)から引き続き知行が与えられ、その生活を維持しました。 【家族と... -
真実の上田合戦~秀忠は関ケ原に遅れたか?~
徳川家臣団【通説の秀忠、関ケ原遅参】 通説によると、徳川本隊を率いた秀忠は、中山道を進んだ後、家康と合流して石田三成との決戦に参戦する予定だったのが、その途上、上田城の真田昌幸に手こずったたため関ケ原の合戦に遅参。父・家康に叱責を受けたとされています。(※詳しくは投稿記事~第二次上田合戦~関ケ原に遅参させたしたたかな戦い~) こ... -
キリシタンの大工・吉蔵 ~フランシスコ吉~
その他、気になる登場人物真田丸・第29回「異変」に、玉・細川ガラシャとともに登場する、キリシタンの大工・吉蔵。 豊臣秀吉による禁教令を受けて長崎で刑死し、殉教者として聖人に加えられた日本二十六聖人の一人である、フランシスコ吉(フランシスコきち)をモデルにした実在の人物と考えられます。 フランシスコ吉は、パブチスタ以下24名が長崎に向かうの... -
凡庸の2代目、徳川秀忠という男
徳川家臣団真田丸第28回。この回は、豊臣秀次切腹事件が新説(斬新な解釈)を用いて展開する中、星野源さん演じる徳川秀忠が初登場。秀次の影に隠れて、ネットではあまり話題に上らなかったようですが、個人的にはたいへん興味深いものでした。家康に言われて、(こちらも初登場の)本多正純に深々と頭を下げる姿は、「実直に、ただひたすら父の言いつ... -
秀吉~天下人のその最期~
真田丸を楽しむポイント【秀吉の付け髭。猿は自ら呼んだ?】 「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と記したのはルイス・フロイス。当時の武将は髭を蓄えるのが習慣だったので、髭の薄い秀吉は付け髭をすることもあったと言われています。(※中国には昔から秀吉が中国出身者である... -
秀次切腹事件に連座した人々
大坂の陣(豊臣方)その数の多さにうんざりしますが、秀次の切腹事件に際して連座して処罰されたり、殉死した家臣たちの一覧です。 この中には秀次の補佐役(後見人)を任されていた前野長康などの秀吉最古参ともいえる重臣(※秀吉伝説の墨俣一夜城築城に協力)も切腹して自害した他、後に大坂の陣で真田信繁や後藤又兵衛らと大活躍する木村重成の父・重茲など... -
本多正純(まさずみ)
徳川家臣団永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれた正純。この時、正信は三河一向一揆に参加して徳川家康に反逆しました。その後、一揆が家康によって鎮圧されると、家中を追放されて大和の松永久秀を頼ります。(このエピソードの詳細はこちら) しかし、正純は母親と共に三河に残り、大久保忠世(大久保忠隣の父)の元で保護されました。や... -
真田左衛門佐信繁~官位とその名の由来~
真田丸を楽しむポイントいよいよ中盤も過ぎ、早いもので第27回を迎えようとしている「真田丸」。主人公・信繁と、その兄・信幸は兄弟そろって従五位下の官位を授り出世。ということになります。 真田信幸・・・伊豆守(いずのかみ) 真田信繁・・・左衛門佐(さえもんのすけ) ※二人が官位を叙任したいきさつや、その官位についての詳しい解説はこちら 今後は劇中、... -
信幸は伊豆守、信繁は左衛門佐。官位、従五位下に叙任!
真田丸を楽しむポイント天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐が成功し北条家が滅亡。東北の雄・伊達政宗も従えての宇都宮仕置、その後の奥羽仕置を済ませて、秀吉は名実ともに天下統一を果たします。 この時期に秀吉は、徳川秀忠、上杉景勝、小早川隆景、毛利輝元らをはじめとした外様大名と、その有力家臣(例えば、直江兼続など)に豊臣性と、官位を集中して与え... -
菊亭晴季(はるすえ)
その他、気になる登場人物【公家の中の公家(清華家の家格)の菊亭家】 菊亭家は、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・菊亭)のうちのひとつ。最上位の摂家に次いで、大臣家の上の序列に位置します。 また、菊亭家(きくていけ)は今出川家(いまでがわけ)ともいい、鎌倉時代末期、太政大臣・西園寺実... -
犬伏の別れ。その真実。
真田丸を楽しむポイント真田家の物語。つまり、真田昌幸とそのふたりの息子、信幸(信之)と信繁(幸村)を語るとき、およそ必須項目と言えるエピソードが、この「犬伏の別れ」と言えるでしょう。 では、実際の犬伏の別れとは、どのようなものだったのでしょうか? 【犬伏の別れ】 徳川家康のもとに馳せ参じるべく進軍する、真田昌幸、信幸、信繁の親子三人... -
後藤又兵衛(基次)②~長政との逸話。こんなにある!不仲の理由!!~
豊臣家の人々【後藤又兵衛、黒田長政との逸話。こんなにある!不仲の理由!!】 ●前述の城井氏との争いでは、実は長政と又兵衛は敗戦しています。その際、一揆鎮圧軍を率いていた長政は頭を丸めて父・官兵衛に詫び、それに追従して家臣も頭を丸める中、基次は従わなかったのだとか。又兵衛は悪びれる様子もなく平然と「戦に勝敗はつきもの。負け戦の度に... -
後藤又兵衛(基次)
大坂の陣(豊臣方)黒田如水(官兵衛)、黒田長政親子に仕え、「黒田八虎」にも数えられた豪勇の戦国武将・後藤又兵衛。大河・真田丸では、哀川翔さんの配役が発表されました。黒田家を出奔して、牢人した後に、大坂の陣では豊臣方として入城。真田信繁の強力な盟友(ライバル)として、また最大の理解者として、大坂の陣での真田信繁を物語るときには、必要不可... -
長宗我部盛親(もりちか)
大坂の陣(豊臣方)大河ドラマ『真田丸』、大坂の陣に欠かせない3人が決定! 大野治長役は今井朋彦さん、明石全登役は小林顕作さんの他、長宗我部盛親役は阿南健治さんに決まりました。 陣中、牢人衆の中では最大勢力を有したといわれる長宗我部盛親。その人物像に迫りたいと思います。 【その生い立ちと、嫡子になるまで】 天正3年(1575年)、四国の... -
豊臣秀吉、終焉の城・伏見城
真田丸を楽しむポイント東山から連なる丘陵の最南端に位置。南には巨椋池が広がり、水運によって大坂と京都とを結ぶ要衝の地である伏見の地に築かれた伏見城。三度に渡って築城されたというこの城はどんな経緯をもって築かれたのでしょうか? 【豪華な様式の豊臣期・伏見城】 朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月、秀吉が隠居後の住まいとす... -
大徳寺~一休さんを輩出した大本山と千利休~
真田丸を楽しむポイント千利休の切腹の理由ともなったと言われる、「大徳寺三門(※寺院を代表する正門のこと)改修に当たり、利休が自身の木像を楼門の二階に設置、その下を秀吉に通らせ、秀吉を激怒させた。」という逸話。その舞台となった臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院は、境内に仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中... -
明石全登(たけのり・ジュスト)
大坂の陣(豊臣方)【謎多き戦国の武将・明石全登】 播磨を支配した名門・赤松氏の支流にあたるとも言われる備前明石家。明石行雄(※景親とも)の子として生まれたとされる明石全登ですが、実際のところ、その生年や、全登という文字の正しい読みなど不明な点の多い人物。キリシタンであったとされています。(※全登は、たけのり、おしとう、ぜんとう、てるずみ... -
政宗のずんだ餅(政宗の多彩)
真田丸を楽しむポイント大河・真田丸、白装束での登場シーンや名物・ずんだ餅を「天下餅」とかけて秀吉とともにつくシーンなど、何かと話題の独眼竜・政宗。歴史的エピソードも秀吉と並んで、たいへん多い政宗の多彩な才能をご紹介します。(※かなりたくさんありますので、あくまでこちらは第1弾。) 政宗の重臣・片倉小十郎重長(重綱)が、信繁とはたいへん縁深い... -
伊達政宗~その半生と野望・秀吉臣従まで~
真田丸を楽しむポイント【コンプレックスに悩んだ少年時代】 永禄10(1567)年、父・輝宗と母・義姫(保春院)の間に、伊達家の嫡男として米沢城に生まれたとされる政宗。幼名は梵天丸と言いました。 4歳(※諸説あり)のころに天然痘を患ったせいで右目を失明。そんなこともあってか、幼少のころは気弱な性格であったと伝わっています。 そして、政宗が8歳のころに... -
豊臣秀次と秀勝、秀保。その父・弥助。
豊臣家の人々叔父・秀吉が出世、天下人となったことでその運命を翻弄された兄弟とその父親。かれらの人生とはどのようなものだったのでしょうか。 【父・木下弥助(三好吉房)】 秀吉(木下藤吉郎)の姉・とも(瑞龍院・日秀尼)を妻として、その間に秀次、秀勝、秀保をもうけました。弥助の出自については諸説あり(というか記録が残っていない)...